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鶏を妖怪とする譚も少なからぬ。かつて『国華』に出た地獄の絵に、全身火燃え立ち居る大きな鶏が、猛勢に翅を鼓して罪人を焼き砕く怖ろしい所があった。これは鶏地獄でその委細は『起世因本経』三に出づ。英国デヴォンシャーの一僧、魔法に精しきが、留守中、その一僕、その室に入って机上に開いた一巻を半頁足らず読む内、天暗く暴風至り戸を吹き開けて、黒色の母鶏が雛を伴れて入り来り、初め尋常の大きさだったが、ようやく増して母鶏は牛大となる。
僧は堂で説法しいたが、内に急用生じたとて罷め帰ると、鶏の高さ天井に届き居る。僧用意の米袋を投げ、雛競い拾う間に禁呪を誦してその妖を止めた(ハズリット、一巻三一三頁)、アフリカまた妖鶏談あって、一六八二年コンゴに行ったメロラ師の紀行に、国王死後二人あって相続を争う、一人名はシマンタムバ、この者ソグノ伯が新王擁立の力あるを以て、請うてその女を娶り、伯佯ってこれを許し、娘と王冠を送るを迎えた途中で掩殺さる。
シマンタムバの弟軍を起し、ソグノ伯領の大部分を取り、伯これを恢復せんとて大兵を率い敵の都へ打ち入るに、住民皆逃げて抗する者なし。伯の軍勢空腹を医するため飲食を掠むる内、常より大きな雄鶏、一脚に大鉄環を貫けるを見、これは魔物故食わぬがよいと賢人の言に従わず、打ち寄せて殺し、裂き煮て食いに掛かると、ほとんど溶けいた鶏肉片が動き出し、合併して本の鶏となり、壁に飛び上ると新羽一斉に生え、更に樹に上って三度翼を鼓し怖ろしい声で鳴いて形見えずなった。さてこそ魔物と一同震慄した。シマンタムバ常に一大鶏を畜い、その鳴く声と時刻を考え、事ごとに成敗を知ったと聞くが、それも無効と見えてソグノ伯に紿き殺された。今度の妖鶏はその鶏であろうかとある(ピンカートンの『海陸紀行全集』一六巻二三八頁)。
支那でも雲南の光明井に唐の大歴間、三角牛と四角羊と鼎足鶏見われ、井中火ありて天に燭す。南詔以て妖となし、これを塞がしむ。今風雲雷雨壇をその上に建つ(『大清一統志』三二二)。誠に以て面妖な談だが、鶏に縁ある日の中に三足の烏ありてふ旧説から訛出したであろう。こんな化物揃いの噺しは日本にもあって、一休和尚讃州旅行の節、松林中に古寺あって僧三日と住せず、化物出ると聞き、自ら望んで往き宿る。夜五更になれば変化出て踊り狂う。
一番の奴の唄に「東野のばずは糸しい事や、いつを楽とも思いもせいで、背骨は損し、足打ち折れて、ついには野辺の土となる/\」、次の奴は「西竹林のけい三ぞくは、ある甲斐もなきかたわに生まれ、人の情けを得蒙らで、竹の林に独りぬる/\」、三番目の物は「南池の鯉魚は冷たい身やな、水を家とも食ともすれば、いつもぬれ/\にや/\しと/\」と唄う。一休一々その本性を暁り、明旦土人を呼び集め、東の野に馬の頭顱、西の藪中に三足の鶏、南の池に鯉あるべしとて探らせると果してあり。これを葬り読経して怪全く絶えたという(『一休諸国物語』四)。
紀州で老人の伝うるは、何国と知れず住職を入れると一夜になくなる寺あり。ある時村へ穢い貧僧来るをこの寺へ泊まらせる。平気で読経し居ると、丑三つ頃、表の戸を敲きデンデンコロリ様はお内にかという者あり。中より誰ぞと問う声に応じ、東山の馬骨と答え、今晩は至極好い肴あるそうで結構でござると挨拶して通る。次は南水のきぎょ、西竹林の三けいちょうと名乗りて入り来り、三怪揃うて僧に飛び掛かるを、少しも動ぜず経を読んで引導を渡すと化物消え失せる。翌朝村人僧の教えのままに、馬頭と金魚、および三足鶏の屍を見出し、また寺の乾の隅の柱上より槌の子を取り下ろす。この槌の子がもっとも悪い奴で、他の諸怪を呼んだのだ。槌の子を乾の隅に置くと怪をなすという。
『曾呂利物語』四には伊予の出石の山寺で足利の僧が妖怪を鎮めたとし、主怪をえんひょう坊、客怪をこんかのこねん、けんやのばとう、そんけいが三足、ごんざんのきゅうぼくとす。円瓢坊は円い瓢箪、客怪は坤河の鯰、乾野の馬頭、辰巳の方の三足の蛙、艮山の朽木とその名を解いて本性を知り、ことごとく棒で打ち砕いて妖怪を絶ち、かの僧その寺を中興すと載す。漢の焦延寿の『易林』に巽鶏と為すとあれば、そんけいは巽鶏だ、圭の字音に拠って蛙をケイと読み損じて、巽の方の三足の蛙と誤伝したのである。
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