(3の1)
3
『甲子夜話』続一七にいわく、ある老人耳聞えず、常に子孫に小言をいう。ある日客ありし時に子供を顧みて物語るは、今時の者はどうも不性なり。我らが若き時はかようにはなしという時、飼い置きし鶏側より時をつくる。老人いわく、あれ聞きたまえ人ばかりでなし、鶏さえ今時は羽敲きばかりして鳴きはしませぬと。
かかる話は毎度繰り返さるるもので、数年前井上馨侯耳聾して、浄瑠璃語りの声段々昔より低くなった、今の鶏もしかりと呟いたと新紙で読んだ。またいわく、ある侍今日は殊に日和よしとて田舎へ遊山に行き、先にて自然薯を貰い、僕に持せて還る中途鳶に攫み去らる、僕主に告ぐ、油揚ならば鳶も取るべきに、薯は何にもなるまじと言えば、鳶、樹梢で鳴いてヒイトロロ、ヒイトロロ。
一八九一年オックスフォード板、コドリングトンの『ゼ・メラネシアンス』に、癩人島の俗譚に十の雛もてる牝鶏が雛をつれて食を求め、ギギンボ(自然薯の一種)を見付けるとその薯根起ち出て一雛を食うた。由って鳶を呼ぶと鳶教えて一同を自分の下に隠す、所へ薯来って、鳶汝は鶏雛の所在を知らぬかと問うに、知らぬと答え、薯怒って鳶を詈る。鳶すなわち飛び下って薯を掴み、空を飛び舞いて地へ堕すを、他の鳶が拾うて空を飛び廻ってまた落すと、薯二つに割れた。それを二つの鳶が分ち取ったから薯に味良いのと悪いのがあるようになったというと記す。面白くも何ともない話だが、未開の島民が薯に良し悪しあるを知って、その起因を説くため、かかる話を作り出したは理想力を全然闕如せぬ証左で、日本とメラネシアほど太く距たった両地方に、偶然自然薯と鳶の話が各々出で来た。その偶合がちょっと不思議だ。
鶏を入れた笑談を少し述べると、熊野でよく聞くは、小百姓が耕作終って帰りがけに、烏がアホウクワと鳴くを聞いて、鍬を忘れたと気付き、取り帰ってさすがは烏だ、内の鶏なんざあ何の役にも立たぬと誹ると、鶏憤ってトテコーカアと鳴いたという。『醒睡笑』二に、若衆あり、念者に向いて、今夜の夢に、鶏のひよこを一つ金にて作り、我に給いたるとみたと語ると、我も只今の夢にそのごとくなる物を参らせると、いやといってお返しあったと見た事よとある。西洋にはシセロ説に寝牀の下に鶏卵一つ匿されあると夢みた人が、判じに往くと、占うて、卵が匿され居ると見た所に財貨あるべしと告げた。由って掘り試むるに、銀あって中に夥しく金を裹めり、その銀数片を夢判じにやると、銀より金が欲しい思し召しから、卵黄の方も少々戴きたいものだと言うたそうな。
一五二五年頃出た『百笑談』てふ英国の逸書に、田舎住居の富人が、一人子をオックスフォードへ教育にやって、二、三年して学校休みに帰宅した、一夜食事前に、その子、我日常専攻した論理学で、この皿に盛った二鶏の三鶏たるを証拠立つべしというので、父それは見ものだ、やって見よ、と命ずると、その子一手に一鶏を執ってここに一鶏ありといい、次に両手で二鶏を持ってここに二鶏ありといい、一と二を合せば三、故に総計三鶏ありと言うた。その時父自ら一鶏を取り、他の一鶏を妻に与えて、子に向い、一つは余、今一つは汝の母の分とする。第三番めの鶏は汝の論理の手際で汝自ら取って食え、と言ったので、子は夜食せずに済ませた。だから鈍才の者に理窟を習わすは、大いに愚な事と知るべしと出づ。
先頃手に鶏を縛るの力もないくせに、一廉労働者の先覚顔して、煽動した因果覿面、ちょっとした窓の修繕や半里足らずの人力車を頼んでも、不道理極まる高い賃を要求されて始めて驚き、自ら修繕し、自ら牽き走ろうにも力足らず、労働者どもがそんなに威張り出したも誰のおかげだ、義理知らずめと詈っても取り合ってくれず、身から出た銹と自分を恨んで、ひもじく月を眺め、膝栗毛を疲らせた者少なくなかったは、右の富人の愚息そのままだ。かく似て非なる者を、仏経には烏骨鶏に比した。
六群比丘とて仏弟子ながら、毎も戒律を破る六人の僧あり。質帝隷居士、百味の食を作り、清僧を請じ、余り物もてこの六比丘を請ぜしに、油と塩で熬た魚をくれぬが不足だ。それをくれたら施主が好き名誉を得ると言うた。居士曰く、過去世に群鶏林中に住み、狸に侵し食われて雌鶏一つ残る。烏来ってこれに交わり一子を生む、その子鶏の声を聞きて父の烏が偈を説いて言うたは、この児、我が有にあらず、野父と聚落母が共に合いてこの子あり、烏でもなく鶏でもなし、もし父の声を学ばんと欲せば、これ鶏の生むところ、もし母の鳴くを学ばんと欲せば、その父は烏なり。烏を学べば鶏鳴に似、鶏を学べば烏声を作す。烏鶏二つながら兼ね学べば、これ二つともに成らずと。
そのごとく魚を食いたがる貴僧らは俗人でも出家でもないと。仏これを聞いて、この居士は宿命通を以て六群比丘が昔鶏と烏の間の子たりしを見通しかく説いたのじゃと言うた(『摩訶僧祇律』三四)、『沙石集』三に、質多居士は在俗の聖者で、善法比丘てふ腹悪き僧、毎にかの家に往って供養を受く、ある時居士遠来の僧を供養するを猜み、今日の供養は山海の珍物を尽されたが、ただなき物は油糟ばかりと悪口した。居士油を売って渡世するを譏ったのだ。そこで居士、只今思い合す事がある、諸国を行商した時、ある国に形は常の鶏のごとく、声は烏のようながあった。烏が鶏に生ませたによって形は母、音は父に似る故烏鶏と名づくと聞いた。貴僧も姿は沙門、語は在家の語なるに付けて、かの烏鶏が思い出さると、やり込められて、善法比丘無言で立ち去ったとある。すべて昔は筆紙乏しく伝習に記憶を専らとした故、かく少しずつ話が変っていったものだ。烏が鶏に生ませた烏鶏とは、烏骨鶏だ。色が黒い故かかる説を称えたので、その頃インドに少なかったと見える。ただし烏骨鶏に白いのもあって、大鬼が小鬼群を引きて心腹病を流行らせに行く末後の一小鬼を、夏侯弘が捉え、問うてその目的を知り、治方を尋ねると、白い烏骨鶏を殺して心に当てよと教う。弘これを用いて十に八、九を癒した由(『本草綱目』四八)。
back next