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この稿を続けるに臨み啓し置くは、鶏の伝説は余りに多いからその一部分を「桑名徳蔵と紀州串本港の橋杭岩」と題して出し置いた。故川田甕江先生は、白石が鳩巣に宛てた書翰と『折焚柴の記』に浪人越前某の伝を同事異文で記したのを馬遷班固の文以上に讃めたが、『太陽』へ出すこの文と『現代』へ寄せたかの文を併せ読んだら、諸君は必ずよくもまあたった一つのこの鳥について、かくまで夥しい材料を、同じ噺を重出せずに斉整して同時二篇に書き分けたものだ、南方さんは恐らく人間であるまいと驚嘆さるるに相違ない。
さて前に釈迦の身長を記しながら「大仏の○○の太さは書き落し」で弥勒の身長を言い忘れたが、弥勒世界の人の身長は十六丈で弥勒仏の身長は三十二丈だ(『仏祖統記』三十)、また昔弥勒と僭号した乱賊あったと記憶のまま書き置いたが、確かに見出した例を挙げると高麗王辛※[#「示+禺」、146-7]八年五月妖民伊金を誅す、伊金は固城の民で自ら弥勒仏と称し、衆を惑わして我能く釈迦仏を呼び寄せる。およそ神祇を祀る者、馬牛肉を食う者、人に財を分たぬ者は必ず死ぬ、わが言を信ぜずば三月に至って日月光なし、またわれは草に青い花を咲かせ、木に穀を実らせ、一度種えて二度刈り取らしめ能う。また山川の神をことごとく日本に送り倭賊を擒にすべしなど宣言したので、愚民ども城隍祠廟の神を撤て去り、伊金を仏ごとく敬い福利を祈る、無頼の徒その弟子と称し相誑かし、至る所の州郡守令出迎えて上舎に館する者あり、清州の牧使権和、その渠首五人を捕斬しようやく鎮まったという(『東国通鑑』五一)、当時高麗人日本を畏るるに乗じ、弥勒仏と詐称した偽救世主が出た。その事極めて米国を怖るる昨今大本教が頭を上げたと似て居るぞよ。怖れて騒ぐばかりでは何にもならぬぞよ。支那にも北魏孝荘帝の時冀州の沙門法慶、新仏出世と称し乱を作した(『仏祖統記』三八)。
さて前回やり掛けた鶏足山の話を続ける。大迦葉が入定して弥勒の下生を待つ所を、耆闍崛山とするは『涅槃経後分』に基づき、鶏足山とするは『付法蔵経』に拠る(『仏祖統紀』五)。『観弥勒菩薩下生経』に弥勒は鶏頭山に生まるべしとあれば、かたがたこの仏は鶏に縁厚いらしい。支那には雲南に鶏足山あり、一頂にして三足故名づく、山頂に洞あり。迦葉これに籠って仏衣を守り弥勒を俟つという(『大清一統志』三一九)。本邦でも中尊寺の鶏足洞、遠州の鶏足山正法寺など、柳田氏の『石神問答』に古く鶏を神とした俗より出た名のごとく書いたようだが、全く弥勒と迦葉の仏説に因った号と察する。
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