鶏に関する伝説(その5)

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  • 概説

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     誰も知る通り婆羅門教に今の時代を悪劫あくごうとするに反し、仏教には賢劫けんごうと称す。この賢劫に四仏既に出た。人寿五万歳の時拘留孫仏くるそんぶつ、人寿四万歳の時倶那含牟尼仏くなごんむにぶつ、人寿二万歳の時迦葉波仏、人寿百歳の時釈迦牟尼仏が出て今の仏法を説いた。それより段々減じて人寿十歳、身のたけ一尺、女人生まれて五月にして嫁す。

    人気至って悪く悪行する者は人に敬せられ、草木瓦石を執るも皆刀剣とあり、横死無数なり。その時山にかくるる者ただ一万人残る。他の人種相殺し尽したのち出で来り相見て慈心を起し共に善法を行う。その功徳くどくで百年ごとに一年ずつ命が増す、人寿八万四千歳に上りそれより八万歳を減ずる時賢劫の第五仏弥勒仏みろくぶつが出る。減じたというものの、人の命が八万年でそれより一年も若くて死ぬ者なく、女人は五百歳でまさに嫁す。

    日に妙楽を受け、禅定ぜんじょうに遊ぶ事三禅の天人のごとく常に慈心ありて恭敬和順し一切殺生せず。ただ飲食便利衰老の煩を免るる能わず。香美の稲ありて一度うれば七度収穫され、百味具足し口に入ればたちまち消化す。大小便の時地裂け赤蓮花を生じて穢気をおおうとあるから、そんな結構な時代の人もやはり臭い糞は垂れるのだ。人民老ゆれば自然に樹下に往き、念仏して静かに往生し、大梵天や諸仏の前に生まる。その時の聖王に子千人と四大宝蔵あって中に珍宝満つ。衆人これを見て貪著とんじゃくせず、釈迦仏の時昔の衆生この宝のためにあい偸劫とうごうして罪を造ったと各あきれる。

    その時弥勒仏生まれて成道じょうどうし、くだんの聖王そのせがれ九百九十九人と弟子となって出家し一子のみ出家せずに王位をぐ。弥勒世尊、翅頭末しとうまつ城外じょうがい金剛荘厳道場こんごうしょうごんどうじょう竜華菩提樹下りゅうげぼだいじゅげで成道する。この樹は枝が宝竜のごとく百の宝華ほうげを吐く故この名あり。初めに金剛座上で説法し九十六億人阿羅漢を得、二会と三会に城外の華林園で説法し、九十四億と九十二億の人が阿羅漢となる。

    これを竜華の三会といって馬琴の『八犬伝』の文句にも出れば、弥陀の念仏流行して西方浄土往きの切符大投げ売りとなるまでは、キリスト教の多くの聖人大士が極楽へ直通りせず最終裁判の日を待ち合すごとく、弘法大師その他の名僧信徒、ことおそれ多いが至尊で落飾された方々もこの弥勒の出世をあるいは入定したり、あるいは天上霊域で待ち合され居るはずとさる高僧から承った。

    とにかく昔の仏徒が弥勒の出世をつ事、古いキリスト教徒がミルレニウムを竢ったごとく、したがって、中国や朝鮮で弥勒と僭号せんごうして乱をした者もありと記憶し、本邦でも弥勒十年辰の年など万歳まんざいが唱え祝い、余幼時「大和国がら女のよばいおとこ弥勒の世じゃわいな」てふ俚謡を聞いた。

    およそ仏教の諸経に、弥勒の世界と鬱単越洲うつたんのっしゅうを記せる、その人間全く無差別で平等で、これが西洋で説かれていたら遠くの昔に弥勒社会主義とかようのものが大いに起ったはずだが、東洋には上述の僅々小人がこれを冒して、小暴動を起したくらいに止まり、わが邦では古く帝皇以下ことごとくその経文を篤信して静かにその出世を竢たれたので、どんな結構な文も読む者の心得一つで危険思想も生ずれば、どんな異常な考えを述べた者も穏やかにこれを味わえば人心を和らげ文化を進めるに大益ありと判る。

    ただし『仏説観弥勒菩薩下生経げしょうきょう』に、この閻浮提洲えんぶだいしゅう、弥勒の世となって、危険な物やきたない物ことごとく消え失せ、人心均平、言辞一類となり、地は自然に香米を生じ、衣食一切の患苦なしとあるに、無数の宝をおさめた四大倉庫自然に現出すると、守蔵人、王にもうす。ただ願わくば大王この宝蔵の物を以てことごとく貧窮に施せと、爾時そのとき大王この宝をおわってまた省録せず、ついに財物の想なしと言えるは辻褄が合わず、どんな暮しやすい世になっても、否暮しやすければやすいほど貧乏人は絶えぬ物と見える。さて、弥勒世尊無量の人と耆闍崛山ぎしゃくつせん頂に登り、手ずから山峯をつんざく。

    その時梵王天の香油を以て大迦葉尊者の身にそそぎ、※(「特のへん+廴+聿」、第3水準1-87-71)だいかんちを鳴らし大法螺おおぼらを吹く音を聞いて、大迦葉すなわち滅尽定めつじんじょうよりめ、衣服を斉整して長跪ちょうき合掌し、釈迦如来涅槃に臨んで大迦葉に付嘱した法衣を持って弥勒仏に授け奉る。釈迦の身長は一丈八尺とか、その法衣が弥勒仏の両指をわずかにおおうはずと土宜法竜僧正から承った。さればこの時諸大衆今日この山頂に人頭の小虫醜陋しゅうろうなるが僧服を著て世尊を礼拝するは珍なものだと嘲ると、弥勒世尊一同に向い、孔雀好色あれど鷹、鶻鷂こつように食われ、白象無量の力あるを、獅子獣小さしといえどもり食らう事塵土じんどのごとし、大竜身無量にして金翅鳥こんじちょうたる、人身長大にして、肥白端正に好しといえども、七宝のかめに糞を盛り、汚穢おわい堪うべからず、この人短小といえども、智慧錬金のごとく、煩悩の習久しく尽き、生死苦余すなし、護法の故にここに住み、常に頭陀事ずだじを行う。

    天人中最もすぐれ、苦行与等なし、牟尼両足尊、遣わし来って我所に至る。汝らまさに一心に、合掌してうやうやしく敬礼すべしとを説き、釈迦牟尼世尊五濁の悪世に衆生を教化きょうけした時、千二百五十弟子の中で頭陀第一、身体金色で、金色の美婦を捨て、出家学道昼夜精進して貧苦下賤の衆生を慈愍じびんし、つねにこれを福度し、法のために世に住する摩訶迦葉とはこの人これなりとするので一同睾丸縮み上って恐れ入る。一丈八尺の法衣が二指を掩い兼ねるほどの巨人の睾丸だから、一個の直径一けんは確かにある。そこで大迦葉尊者前述烏※国うせつこく[#「金+殺」、144-14]出定しゅつじょう阿羅漢同様の芸当を演じ、自ら火化する骨を弥勒が拾うて塔婆を立つるという未来記だが、五十六億七千万年後のこと故信ずるにも足らねば疑うも気が利かぬ。

    ただ熊楠がここに一言するは、壮歳諸国を歴遊した頃は、逢う南中米のスペイン人ごとに余を軽視する事甚だしく、チノ・エス・エル・シウダッド・デル・ハボン(支那は日本の都)といって、日本とは支那の領地の片田舎と心得た者のみだった。かく肩身の狭い日本に生まれながら、その頃の若者はそれぞれ一癖も二癖もあり、吾輩自身も自分がかつてこれほどの事がよく出来たと驚くほどの働きをした。しかるに日本の肩味が広くなればなるほど、これが何で五大国の一かと重ね重ね怪しまるるほど日本人の実価が下ったように思う。孔雀好色あれど鷹に食われ、獅子小といえども大象を撮り食う事塵土のごとしという。

    弥勒、如来のことばは分り切った事ながら各の身に当て省みるべきじゃ。『西域記』九には大迦葉が釈迦の法衣を守って入定し居る地を鶏足けいそく山とす。三つの峯そびえて鶏の足に似たから名づけたらしい(ビール英訳、二巻一四二頁註)、これは耆闍崛山と別だ。「迦葉尊者は鶏足に袈裟を守って閉じ籠る」という和讃わさんあれば、本邦では普通鶏足山に入定すとしたのだ。支那にも『史記』六に〈始皇隴西ろうせい北地を巡り、鶏頭山に出で、回中を過ぐ〉とある。鶏頭の形した山と見える。

    (大正十年一月、『太陽』二七ノ一)

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    「鶏に関する伝説」は『十二支考〈下〉』 (岩波文庫)に所収

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