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一五三五年頃スアヴェニウスは、スコットランドで周り八マイルばかりまるで鶏鳴かぬ地を見た由(ハズリット、一巻一三五頁)。『広益俗説弁』三八に、俗説にいわく、菅丞相御歌に「鳥もなく鐘も聞えぬ里もがな、ふたりぬる夜の隠れがにせむ」。これは太田道灌の『慕景集』鳥に寄する恋「世の中に鳥も聞えぬ里もがな、二人ぬる夜の隠れがにせむ」とあるを、菅原の詠と誤り伝えたのだとあって「鳴けばこそ」の歌は『天満宮故実』等に出ると言ったが、『天満宮故実』という物、余見た事なく、確かな書籍目録にも見えぬ。想うに道灌の「世の中に」の詠を真似て後人が「鳴けばこそ」の一首を偽作したのであろう。
元禄時代の編てふ『当世小唄揃』には「鳥のねも鐘も聞えぬ里もがな、二人ぬる夜の隠れがにせん」とある。「人を助くる身を持ちながら暁の鐘つく」糞坊主と斉しく、鶏の無情を恨んだ歌はウンザリするほどあって、就中著名なは、『伊勢物語』に、京の男陸奥の田舎女に恋われ、さすがに哀れとや思いけん、往きて寝て、夜深く出でにければ、女「夜も明けば狐にはめけん鶏の、まだきに鳴きてせなをやりつる」。後世この心を「人の恋路を邪魔する鳥は犬に食われて死ぬがよい」とドド繰ったものじゃ。『和泉式部家集』五、鶏の声にはかられて急ぎ出でてにくかりつれば殺しつとて羽根に文を附けて賜われば「いかゞとは我こそ思へ朝な/\、なほ聞せつる鳥を殺せば」、これは実際殺したのだ。
劉宋の朝の読曲歌にも〈打ち殺す長鳴き鶏、弾じ去る烏臼の鳥〉。『遊仙窟』には〈憎むべし病鵲夜半人を驚かす、薄媚の狂鶏三更暁を唱う〉。呉の陸の『毛詩草木虫魚疏』下に、〈鶴常に夜半に鳴く〉。『淮南子』またいう、〈鶏はまさに旦けんとするを知り、鶴は夜半を知る、その鳴高亮、八、九里に聞ゆ、雌は声やや下る、今呉人園囿中および士大夫家の皆これを養う、鶏鳴く時また鳴く〉と見ゆれば、鶏と等しく鶴も時を報ずるにや。それから例の「待つ宵に更行く鐘の声聞けば、飽かぬ別れの鳥は物かは」に因んで、『新増犬筑波』に、「今朝のお汁の鳥はものかは」「何処にも飽かぬは鰈の膾にて」「これなる皿は誉める人なし」とは面白く作ったものだ。
肩吾の冬暁の詩に、〈隣鶏の声すでに伝わり、愁人ついに眠らず〉。楊用脩の継室黄氏夫に寄する詩に、〈相聞空しく刀環の約あり、何の日か金鶏夜郎に下らん〉、李廓の鶏鳴曲に、〈星稀に月没して五更に入る、膠々角々鶏初めて鳴く、征人馬を牽いて出でて門立つ、妾を辞して安西に向いて行かんと欲す、再び鳴きて頸を引く簷頭の下、月中の角声馬に上るを催す、わずかに地色を分ち第三鳴、旌旆紅塵すでに城を出づ、婦人城に上りて乱に手を招く、夫婿聞かず遥かに哭する声、長く恨む鶏鳴別時の苦、遣らず鶏棲窓戸に近きを〉。
支那にも鶏に寄せて閨情を叙べたのが少なくない。余一切経を通覧せしも、男女が鶏のつれなさを恨んだインドの記事を一つも見なんだ。欧州にも少ないらしい。日本に至っては逢うて別るる記述毎に鶏が引き合いに出る。『男色大鑑』八に芝居若衆峰の小曝
し闘鶏を「三十七羽すぐりてこれを
庭籠に入れさせ、天晴、この鶏に勝りしはあらじと自慢の夕より、憎からぬ人の尋ねたまい、いつよりはしめやかに床の内の首尾気遣いしたまい、明方より前に八の鐘ならば夢を惜しまじ、知らせよなど勝手の者に仰せつけるに、勤めながら誠を語る夜は明けやすく、長蝋燭の立つ事はやく、鐘の撞き出し気の毒、太夫余の事に紛らわせども、大臣耳を澄まし、八つ九つの争い、形付かぬ内に三十七羽の大鶏、声々に響き渡れば、申さぬ事かと起ち別れて客は不断の忍び駕籠を急がせける、名残を惜しむに是非もなく、涙に明くるを俟ちかね、己れら恋の邪魔をなすは由なしとて、一羽も残さず追い払いぬ。
これなどは更にわけの若衆の思い入れにはあらず、情を懸けし甲斐こそあれ」とは、西洋で石田を耕すに比べられ、『四季物語』に「妹脊の道は云々、この一つのほかの色はただ盛りも久しからず、契りの深かるべくもあらぬ事なるを、いい知らずもすける愛なき云々、幼き心つからは何かは思わん。互いに色に染み、情にめでてこそこの道迷いは重くも深くもあるべし。ただ何となき児姿をこそいえ心はただなおにこそ思わめ」と譏られた男子同性愛も、事昂ずればいわゆるわけの若衆さえ、婦女同然の情緒を発揮して、別れを恨んで多数高価の鶏を放つに至ったのだ。
わが国でこの類の最も古いらしい伝説は、神代に事代主命小舟で毎夜中海を渡り、楫屋村なる美保津姫に通うに、鶏が暁を告ぐるを聞いて帰られた。一夜、鶏が誤って夜半に鳴き、命、周章舟を出したが櫓を置き忘れ、拠なく手で水を掻いて帰る内、鰐に手を噬まれた。因って命と姫を祀れる出雲の美保姫社辺で鶏を飼わず。参詣者は鶏卵を食えば罰が中るとて食わぬ(『郷土研究』一巻二号、清水兵三氏報)。
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