(4の4)
処女権の話に夢中になってツイ失礼しました。さて、曠野城の大将の恒例として、城内の人が新婦を娶るごとに処女権を振り廻す。ある時一女子あって人に嫁せんとするに臨み、そもそもこの城の人々こそ怪しからね、自分妻を迎うるとてはまず他人の自由にせしむ、何とかしてこの事を絶ちたいと左思右考の末、白昼衆人中に裸で立ち小便した。立ち小便については別に諸方の例を挙げ置いたが(立小便と蹲踞小便)、その後見出でたは、慶安元年板『千句独吟之俳諧』に「佐保姫ごぜや前すゑて立つ」、「余寒にはしばしはしゝを怺へかね」、まずこれが日本で女人立ち尿の最古の文献だ。
ずっと前に源俊頼の『散木奇歌集』九に、内わたりに夜更けてあるきけるに、形よしといわれける人の打ち解けてしとしけるを聞きて咳きをしたりければ恥じて入りにけり、またの日遣わしける「形こそ人にすぐれめ何となくしとする事もをかしかりけり」。打ち解けて人に聞かるるほど垂れ流したのだから、これは宮女立ち小便の証拠らしくもある。
それはさて置き、曠野城の嫁入り前の女子が昼間稠人中で裸で立ち尿をした空前の手際に、仰天して一同これを咎めると、女平気で答うらく、この国民はすべて意気地なしで女同然だ。而して将軍独りが男子で婚前の諸女を弄ぶ。われら女人は将軍の前でこそ裸で小便がなるものか、だが汝ら女同前の輩の前で立ち小便しても何の恥かあるべきと。衆人これを聴いて大いに慙じ入り、会飲の後将軍を取り囲みその舎を焼かんとす。
いわく婦女嫁入り前に必ずすべて汝に辱しめらるるはどうも堪忍ならぬ故、汝を焼き殺すべしと。将軍それは無体だ、我辞退したのを汝ら強いて勧めたではないかと、諸人聴き入れず何に致せ焼けて焼けて辛抱が仕切れぬからという事で焼き殺ししまった。ところがこの将軍殺さるる三日前に、仏の大弟子目連と、舎利弗、およびその五百弟子を供養した功徳で大力鬼神となり、大疫気を放ち無数の人を殺す。
城民弱り入り、林中に行きて懺謝し、毎日一人を送って彼に食わせる事に定め、一同鬮引して当った者の門上に標札を掲げ、家主も男女も中ったら最後食われに往かしめた。かく次第してついに須抜陀羅長者の男児が食わるる番に中った。長者何とも情けない。如来我子を救えと念ずると、仏すなわち来て鬼神殿中に坐った。鬼神、仏に去れというと仏出で去る。
鬼、宮に入れば、仏、また還り、入る事三度して四度目に仏出でず、鬼神怒って出でずんば汝の脚を捉え、恒河裏に擲げ込むべしというに、仏いわく、梵天様でも天魔でも我を擲つ力はないと。鬼神ちとヘコタレ気味で四つの問いを掛けた。誰か能く駛い流れを渡る、誰か能く大海を渡る、誰か能く諸苦を捨つる、誰か能く清浄を得るぞと。仏それは御茶の子だ、信能く駛流を渡り、放逸ならぬ者能く大海を渡り、精進能く苦を抜き、智慧能く清浄を得と答うると、鬼神さもあろう、それもそうよのうと感心して仏弟子となり、手に長者の男児を捉えて仏の鉢中に入れた、曠野鬼神の手から救われ返った故この児を曠野手と名づけ王となる。
仏と問答してたちまち悟り、病死して無熱天に生まれた。仏いわく、過去に一城の王好んで肉を食らう。時に王に求むる所ある者、鶏を献じ、王これを厨人に渡し汁に焚かしめた。かの鶏を献じた人、もとより慈心あり、鶏の罪なくして殺さるるを哀しみ、厨人よりこれを償い放ち、この王の悪業願わくは報いを受くるなかれ、我来世厄難に遭う時、えらい大師が来って救いたまえと念じた。その鶏を献じた者が今の曠野手王に生まれ、昔の願力に由ってこの厄難を免れたと。この話自身は余りゾッとせぬ(『根本説一切有部毘那耶』四七、『雑宝蔵経』七参酌)。
明の永楽十五年に成った『神僧伝』九にいわく、嘉州の僧、常羅漢は異人で、好んで人に勧めて羅漢斎を設けしめたからこの名を得、楊氏の婆、鶏を好み食い、幾千万殺したか知れず、死後家人が道士を招いて祭する所へこの僧来り、婆の子に向い、われ汝のために懺悔してやろうという。楊家甚だ喜び、延き入れると、僧その僕に街東第幾家に往って、花雌鶏一隻を買い来らしめ、殺し煮て肉を折り、盤に満て霊前に分置し、その余りを食い、挨拶なしに去った。この夕、鶏を売った家と楊氏とことごとく夢みたは、楊婆来り謝して、存生時の罪業に責められ、鶏と生まれ変り苦しむところを、常羅漢悔謝の賜ものに頼りて解脱したと言うと、これより郡人仏事をなすごとにこの僧が来れば冥助を得るとしたと。
back next