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坊主が自分の好く物を鱈腹頬張って得脱させやったと称えた例は、本邦またこれある。『宇治拾遺』に永超僧都は魚なければ食事せず、在京久しき間魚食わず、弱って南都に下る途上、その弟子魚を乞い得て薦めた。魚の主、後に鬼がその辺の諸家に印し付くるに我家のみ付けず、鬼に問うとかの僧都に魚を奉った故印し除くというと夢みた。その年この村疫病で人多く死んだが、この家のみ免れ、僧都の許へ参り告げると被物一重くれたとある。
『古今著聞集』に、伊勢の海浜で採れた蛤を東大寺の上人が買って放ちやると、その夜の夢に蛤多く集まりて、大神宮の前に進りて得脱するはずだったに、入らぬ世話して苦を重ねしめられたと歎いたと記す。夢に立会人がないからアテにならず、まずは自分が食いたさにこんな事を触れ散らしたのだろう。それよりも豪いのはインドで、女人その身を僧に施すを功徳と信じた。『解脱戒本経』に、もし比丘、女人の前において自ら身を讃め、姉妹我ら戒を持し善く梵行を修す、まさに婬慾を以て供養すべし、この法は供養最も第一と言わば、僧伽婆尸沙罪たりという。
その風を伝えたものか、『西域見聞録』五にズルガル部落を記して、〈最も喇嘛を重んず云々、遥かにこれを見ればすなわち冠を免て叩著す、喇嘛手にてその頂を摩し、すなわち勝れてこれを抃舞す、女を生めば美麗なるを択びてこれを喇嘛に進むるに至る、少婦疾病あるに遇えば、すなわち喇嘛と歇宿せんことを求む、年を経月を累ね、而して父母本夫と忻慰す、もしあるいは病危うければ本夫をして領出せしめ、ただその婦の薄福を歎ずるのみ〉。前述一向宗徒が門跡様をありがたがったごとし。ジュボアの『印度の風俗習慣および礼儀』二巻六〇九頁等に、梵士が神の妻にするとて美婦を望むに、親や夫が悦んでこれを奉り、梵士の慰み物としてその寺に納れる由を記す。
男女が逢瀬の短きを恨んで鶏を殺す和漢の例を上に挙げたが、それと打って異った理由から鶏を殺す話がイタリアにある。貧しい少女が独り野に遊んで、ラムピオン(ホタルブクロの一種で根が食える)を抜くと、階段が見える。歩み下ると精魅の宮殿に到り、精魅らかの少女を愛する事限りなし。それより母の許へ帰らんと望むに、許され帰る。その後、夜々形は見えずに噪ぐ者あるので、母に告げると、蝋燭を点して見出せという。次の夜、蝋燭点して見ると、玉のごとき美少年胸に鏡を著けたるが眠り居る。その次の夜もかくして見るとて、誤ってその鏡に蝋を落し、少年たちまち覚めて汝はここを去らざるべからずと歎き叫んだ。
少女すなわち去らんとする時、精魅現われて糸の毬を与え、最も高い山頂に上ってこの毬を下し、小手巻きの延び行く方へ随い行けと教え、その通りにして一城下に達するに、王子失せたという事で城民皆喪服しいた。たまたま母后窓よりこの女を見、呼び入れた。その後この女愛らしい男児を生むと、毎夜靴を作る男ありて「眠れ眠れわが子、汝をわが子と知った日にゃ、汝の母は金の揺籃と金の著物で汝を大事に育つだろ、眠れ眠れわが子」と唄うた。女、母后に告げたはこの男こそこのほど姿を晦ましたという王子で、王子に見知られずに日が出るまで王宮に還らぬはずだと、母后すなわち城下の鶏を殺し尽くし、一切の窓を黒絽で覆い、その上に金剛石を散らし掛けしめ、日出るも見知らずまだ夜中と思わせた。かくて王子は少女と婚し、目出たく添い遂げたそうだ。
イタリア人ジォヴァンニ・バッチスタ・バシレの『イル・ペンタメロネ』の四巻一譚に、ミネカニエロ翁雄鶏を飼う。金入用に及び、これを術士二人に売る。彼ら鶏を持ち去るとて、この鶏の体内に石あり。それを指環に嵌めて佩ぶれば、欲しいと思う物ことごとく得べしと語る。ミネカニエロこれを聞いてその鶏を盗み、殺して石を取り、青年に若返り、金銀荘厳の宮殿に住む。術士化け来って、その指環を衒り取ると、ミネカニエロまた老人となり、指環を取り戻さんと鼠が住む深穴国に至る。鼠ども術士の指を咬んで環をミ翁に復す。ミ翁また若返り、二術士を二驢に化し、自らその一に騎り、後山より投下す。今一の驢に豕脂を負わせ、報酬として鼠どもに贈るとある。
鶏石(ラテン名ラピルス・アレクトリウス)は鶏の体内にある小石で、豆ほど大きく、水晶の質でこれを佩ぶれば姙婦に宜しく、また人をして勇ならしむ。クロトナのミロンは鶏石のおかげで大勇士となった由。一六四八年ボノニア板、アルドロヴァンズスの『ムセウム・メタリクム』四巻五八章に、この石の記載あるが諸説一定せず、蚕豆状とも三角形ともいう。佩ぶれば姙婦に宜しという石どもについては、余未刊の著『燕石考』に詳述したが、その一部分を「孕石の事」と題して出し置いた。
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