(仏教譚7)
また『西域記』十二に古え瞿薩旦那国王数十万衆を整えて東国の師百万を拒ぎ敗軍し、王は虜られ将士鏖にさる、その地数十頃血に染みて赤黒く絶えて蘗草なしと見ゆ、南インド、マドラスの少し南マイラブルは今日英領だが徳川氏の初世はポルトガルに隷きサントメと呼んだ、したがってそこから渡した奥縞を桟留機とも呼んだ、キリストの大弟子中尊者トメ最も長旅し、メデア、ペルシア、大夏、インド、エチオピアまた南米までも教化したと言う、いわゆる南インドの尊者トメ派は唐代に支那に入った景教と同じくネストリウスの宗見を奉ずる故、同じキリスト教ながら新教旧教またギリシア教より見れば教外別伝の概あり、一六七六年マドリッド版ナヴァワッテの『支那歴史道徳論』八六頁に尊者トメ支那に往けり、後世これを崇めて達磨と称うとしばしば聞いたと筆せるはトメと達磨と音近く『続高僧伝』等皆達磨を南天竺から支那へ来たとしたかららしい、尊者トメ山とてその終焉の蹟現存す、けだし尊者マイラプル王の怒りに触れ刑されて死んだとも孔雀を狩る土人に誤殺されたとも伝う、十三世紀のマルコ・ポロ紀行にいわく尊者の墓へキリスト回々二教の徒夥しく詣り尊者殺された処の土色赤きを採り帰って諸種の病人に水服せしも効験灼然と、十六世紀にジョアン・デ・バルロス記すらく、尊者最期に踏んでいた石に鮮血迸り懸りたるが今にあり、少時前に落ちたとしか見えぬほど生々しいと、一八九〇年版クックの『淡水藻序説』第十二章に一〇六六年英国最後のサクソン王ハロルド、ノルマン人とヘスチングスに戦い殪れた、そこに雨後必ず赤くなる地あり、
これ死人の怨恨により土が血の汗を出すのだというが、実は学名ポーフィリジゥム・クルエンツムてふ微細の藻が湿地に生じ、晴れた日は乾いて黒いが雨ふれば凝った血のように見えるのだと述べ居る、この藻は和歌山市の墓地などに多く、壁などに大小種の斑点を成して生えるとちょうど人が斬られて血が迸ったごとく見える、予年来奇異の血跡など称うる処を多く尋ね調べたがあるいは土あるいは岩石の色が赤いのもありまた種々の生物で血のように見えるのもある、詳しく論じても一汎読者には何の面白くもなきこと故、ただ一つ述べ置くは藻を青、緑、褐、紅と四色の類に分かつ、青緑褐の藻群には鹹水に生ずるものも淡水に産するものも多いが紅藻の一群およそ二百属のうち淡水に産するは甚だ少なく、属中の諸種ことごとく淡水にのみ生ずる紅藻ただ七属、そのうち四属は日本にもある、このほかに属中の多種は海にばかり生ずるが一種また二、三種は淡水に産する紅藻六属ある、ヒルデプランチア属の数種は本邦諸方の磯に産し鹹水下の岩面に薄く堅い皮となって固著しまるで紅い痣のようだ、しかるに十二年前予那智の一の滝下および三の滝上で浅い急流底の岩面が血を流したように赤きを見最初はその岩に鉄分ある故と思うたが念のため採り帰って精査するとヒルデプランチア・リヴラリスてふ紅藻だった、その後熊野十津川から日高奥の諸山地で血の附いたような岩が水辺にあるを見るごとに検査すると多くは同じ紅藻だった、この藻は欧州にはアルプス地方その他より古く知れ居るが米国には三十年ばかり前予留学した頃はただ一処しか産地がなかった、那智ごとき不便の地に久しく独居すると見聞が至って狭く
山ごときものとなるがそれと同時に考察の力が鋭くなりしたがって従来他から聴いたり書で読んだりせなんだ問題を自ずから思い浮かぶ事が多い、紅藻属種の最も多くは海に限って産しヒルデプランチア属の他の諸種は皆海に生ずる、このリヴラリスの一種のみ深山高地の急流底に生ずるから推すとこの一属は太古高山に創生して追々海へ繁殖したものでなく、昔海だった処が漸々隆起して陸となり山となったに伴れて当時磯に生えおったこの藻も鹹水住居を淡水に振り替えて渓流で存命らえある一種となったか、ただしは初め海にのみ生じたものが漸々川へ滝を伝うて高山に登ったかでなければならぬ、然るところ昔海だった証左のまるでない高山にもこの藻がありかつ風で運ばれ行くべき性質のものでないからどうしても海から山へ登ったと判ずるのほかない、十一年前予紀州西牟婁郡朝来沼で丁斑魚にミクソネマ・テヌエてふ緑藻が託生せるを見出したが三、四年経てアイルランドで同じ藻が金魚に著きいるを見出した人があった(一九〇八年十一月の『ネーチュール』七九巻九九頁、予の「魚に著くる藻」を見よ)。
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「虎に関する史話と伝説民俗」は『十二支考〈上〉』 (岩波文庫)に所収