(仏教譚6)
高木敏雄君の『日本伝説集』を見ると三人の児に留守させ寺詣りした母親を山姥が食い母親の仮してその家に入り末の子を食う、二児その山姥たるを知り外に出で桃の樹に上り天を仰いで呼ぶと天から鉄の鎖が下る、それに縋って登天す、これに倣うて山姥も天を仰いで呼ぶと腐った縄が下る、それに縋って上ると縄切れ山姥高い処から蕎麦畑に落ち石で頭を破って死んだ、その血に染まって蕎麦の茎が今のごとく赤くなったという天草の俚話がある。
今一つ出雲に行わるる譚とて黍の色赤き訳を説きたるは、天保元年喜多村信節撰『嬉遊笑覧』九に載せた瓜姫の咄の異態と見える。
「今江戸の小児多くはこの話を知らず、老父老嫗あり、老父は柴を苅りに山に行き老嫗は洗濯に川へ行きたりしに、瓜流れ来りければ嫗拾い取りて家に帰り、老父に喰わせんとて割りたれば内より小さき姫出でたり、美しき事限りなし、夫婦喜びて一間の内に置く、姫生い立ちて機を織る事を能くして常に一間の外に出でず、ある時庭の木に鳥の声して瓜姫の織りたる機の腰に天の探女が乗りたりけりと聞えければ、夫婦怪しと思いて一間の内に入りて見るに、天の探女姫を縄にて縛りたり、夫婦驚きてこれを援け天の探女を縛り、此女薄の葉にて鋸かんとて薄の葉にて鋸きて切り殺しぬ、薄の葉の本に赤く色附きたるはその血痕なりという物語田舎には今も語れり、信濃人の語るを聞きし事あり」と信節の説だ。
出雲に行わるるところは大分これと異い爺と媼と姫を鎮守祠に詣らせんとて、駕籠買いに出た跡に天探女来り、姫を欺き裏の畑へ連れ行きその衣服を剥ぎ姫を柿の木に縛り、自ら姫の衣服を着て爺媼が買うて来た駕籠に乗り祠に詣らんとする時木に縛られた姫泣く、爺媼欺されたと感付き天探女の首を鎌で打ち落し裏の黍畑に棄てた、その血で黍の色赤くなったという。
前の咄に薄の葉で鋸き殺すとあるに似た例、『西域記』十に竜猛菩薩薩羅国の引正王に敬われ長寿の薬を与えたので王数百歳経ても死なず、多くの子孫がお先へ失礼するを見て王妃がその穉子に説いて竜猛生きいる内は王死なず、汝王たるを望まば所用ありとて竜猛にその頭を求めよ慈悲深厚な菩薩故決して辞まぬだろと勧めた、穉子寺に詣り母の教えのごとく如来の前生身を授けて獣に飼い肌を割いて鴿を救うた事など例多く引いて、我求むるところありて人頭を用いたいが他人を殺すと罪重ければ死を何とも思わぬ菩薩の頭をくれぬかと要せられ、さすがの一切智人も婦女の黠計に先を制せられて遁れ得ず、いたずらに我が身終らば汝の父もまた喪わん事こそ気懸りなれといって、手許に兵刃がないからあり合せの乾いた茅葉で自ら頸を刎ねると利剣で断り割くごとく身首処を異にし、王聞きて哀感しまた死んだと出づ。
いわゆる茅の葉は多分梵名矩奢、支那で上茅と訳する草の葉だろう。
本邦で茅を「ち」と訓じ「ち」の花の義で茅花を「つばな」と訓む、「ち」とは血の意で昔誰かが茅針で足を傷め血がその葉を染めて赤くしたと幼時和歌山で俚伝を聞いたが確と記えぬ。
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「虎に関する史話と伝説民俗」は『十二支考〈上〉』 (岩波文庫)に所収