(概言1の4)
李時珍曰く〈その類数種あり、小にして尾短きは猴なり、猴に似て髯多きは※[#「據−てへん」、32-15]なり、猴に似て大なるは※[#「けものへん+矍」、32-16]なり。大にして尾長く赤目なるは禺なり。小にして尾長く仰鼻なるは※[#「けものへん+鴪のへん」、32-16]なり。※[#「けものへん+鴪のへん」、32-16]に似て大なるは果然なり。※[#「けものへん+鴪のへん」、33-1]に似て小なるは蒙頌なり。※[#「けものへん+鴪のへん」、33-1]に似て善く躍越するは※※[#「けものへん+斬」、33-1][#「鼬」の「由」に代えて「胡」、33-1]なり。猴に似て長臂なるはなり。に似て金尾なるは※[#「けものへん+(戎−ノ)」、33-2]なり。に似て大きく、能く猴を食うは独なり〉。
支那の動物は今に十分調ばっていぬから一々推し当つるは徒労だが、小にして尾短きは猴なりといえば、猴は全く日本のと同種ならずも斉しくマカクス属たるは疑いなし。それも日本と異なり一種に止まらず、北支那冬寒厳しき地に住むマカクス・チリエンシス(直隷猴)は特に厚き冬毛を具し、マカクス・シニクス(支那猴)は頭のつむじから長髪を放ち垂る。由って英人は頭巾猴と呼ぶとはいわゆる楚人沐猴にして冠すの好き対だ。
猴の記載は李時珍のがその東洋博物学説の標準とされたから引かんに曰く、班固の『白虎通』にいわく猴は候なり、人の食を設け機を伏するを見れば高きに憑って四望す、候に善きものなり、猴好んで面を拭うて沐するごとき故に沐猴という。後人母猴と訛りまたいよいよ訛って猴とす。猴の形、胡人に似たる故胡孫という。
『荘子』に狙という。馬を養う者厩中にこれを畜えば能く馬病を避く、故に胡俗猴を馬留と称す、状人に似、眼愁胡のごとくにして、頬陥り、※[#「口+慊のつくり」、33-12]、すなわち、食を蔵す処あり、腹に脾なく、行くを以て食を消す、尻に毛なくして尾短し、手足人のごとくにて能く竪って行く、その声々(日本のキャッキャッ)として咳するごとし。孕む事五月にして子を生んで多く澗に浴す。その性騒動にして物を害す、これを畜う者、杙上に坐せしめ、鞭つ事旬月なればすなわち馴ると。
時珍より約千五百年前に成ったローマの老プリニウスの『博物志』は、
法螺も多いが古欧州斯学の様子を察するに至重の大著述だ。ローマには猴を産しないが、当時かの帝国極盛で猴も多く輸入されたから、その記載は丸の法螺でないが曰く、猴は最も人に似た動物で種類一ならず、尾の異同でこれを別つ、猴の黠智驚くべし、ある説に猟人黐と履を備うるに猴その人の真似して黐を身に塗り履を穿きて捕わると、ムキアヌスは猴よく蝋製の駒を識別し習うて象戯をさすといった。
またいわく尾ある猴は月減ずる時甚だ欝悒し新月を望んで喜び躍りこれを拝むと、他の諸獣も日月蝕を懼るるを見るとさような事もありなん。猴の諸種いずれも太く子を愛す、人に飼われた猴、子を生めば持ち廻って来客に示し、その人その子を愛撫するを見て大悦びし、あたかも人の親切を解するごとし。さればしばしば子を抱き過ぎて窒息せしむるに至る。
狗頭猴は異常に獰猛だ。カリトリケ(細毛猴)はまるで他の猴と異なり顔に鬚あり。エチオピアに産し、その他の気候に適住し得ずというと。博覧無双の名あったプリニウスの猴の記載はこれに止まり、李氏のやや詳しきに劣れるは、どうしてもローマに自生なく中国に多種の猴を産したからだ。
右に見えた黐と履で猴を捕うる話はストラボンの『印度誌』に出で、曰く、猟人、猴が木の上より見得る処で皿の水で眼を洗い、たちまち黐を盛った皿と替えて置き、退いて番すると、猴下り来って黐で眼を擦り、盲同然となりて捕わると、エリアヌスの『動物誌』には、猟人猴に履はいて見せ、代わりに鉛の履を置くと、俺もやって見ようかな、コラドッコイショと上機嫌で来って、その履を穿く。豈図らんや人は猴よりもまた一層の猴智恵あり、機械仕懸けで動きの取れぬよう作った履故、猴一たび穿きて脱ぐ能わずとある。日本でも熊野人は以前黐で猴を捕えたと伝え、その次第ストラボンの説に同じ。
『淵鑑類函』に阮※[#「さんずい+研のつくり」、35-4]封渓で邑人に聞いたは、猩々数百群を成す。里人酒と槽を道傍に設け、また草を織りて下駄を作り、結び連ね置くを見て、その人の祖先の姓名を呼び、奴我を殺さんと欲すと罵って去るが、また再三相語ってちょっと試みようと飲み始めると、甘いから酔ってしまい、下駄を穿くと脱ぐ事がならずことごとく獲られ、毛氈の染料として血を取らると載せたが、またエリアヌスの説に似て居る。猩々はもと々と書く。
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