(概言1の3)
昔狂月坊に汝の歌は拙(まず)いというと、「狂月に毛のむく/\と生(はえ)よかしさる歌よみと人に知られん」。その相似たるより毳々(むくむく)と聞けばたちまち猴を聯想するので、支那で女根を※※(こそ)[#「けものへん+胡」、29-9][#「けものへん+孫」、29-9]といい(『笑林広記』三)、京阪でこれを猿猴と呼び、予米国で解剖学を学んだ際、大学生どもこれをモンキーと称えいたなど、『松屋(まつのや)筆記』にくぼの名てふ催馬楽(さいばら)のケフクてふ詞を説きたると攷(かんが)え合せて、かかる聯想は何処(どこ)にも自然に発生し、決して相伝えたるにあらずと判る。
ただし『甲子夜話』続十七に、舅(しゅうと)の所へ聟見舞に来り、近頃疎濶(そかつ)の由をいいかれこれの話に及ぶ。舅この敷物は北国より到来せし熊皮にて候といえば、聟撫(な)で見てさてさて所柄(ところがら)とてよき御皮なり、さて思い出しました、妻も宜(よろ)しく御言伝(おことづて)申し上げますとあるは、熊皮は毳々たらぬがその色を以て聯想したのだ。
仏経や南欧の文章に美人を叙するとて髪はもちろんその他の毛の色状を細説せるを、毛黒からぬ北欧人が読んで何の感興を生ぜぬは、自分の色状と全く違うからで、黒熊皮を見ても妻を想起せぬのだ。瑣細(ささい)な事のようだが、心理論理の学論より政治外交の宣伝を為(な)すにこの辺の注意が最も必要で、回教徒に輪廻(りんね)を説いたり、米人に忠孝を誇ってもちっとも通ぜぬ。
マローンの『沙翁集』十に欧州の文豪ラブレー、ラフォンテンなどの女人、その根(こん)を創口(きずぐち)に比して男子に説く趣向を妙案らしく喋々(ちょうちょう)し居るが、その実東洋人にはすこぶる陳腐で、仏教の律蔵には産門を多くは瘡門(そうもん)(すなわち創口)と書きあり、『白雲点百韻俳諧』に「火燵(こたつ)にもえてして猫の恋心」ちゅう句に「雪の日ほどにほこる古疵(ふるきず)」。彦山権現(ひこさんごんげん)の戯曲に京極内匠が吉岡の第二女に「長刀疵(なぎなたきず)が所望じゃわい」。
手近にかかる名句があるにとかく欧人ならでは妙案の出ぬ事と心得違う者多きに呆(あき)れる。もちろん血腥(ちなまぐさ)からぬ世となりて長刀疵などは見たくても見られぬにつけ、名句も自然その力を失い行くは是非なしとして、毛皮や刀創を多く見る社会にはそれについて同一の物を期せずして聯想する、東西人情は兄弟じゃ。
女を猴に比する事も東西共にありて、英国の政治家セルデンは女を好まず、毎(つね)にいわく、妻を持つ人はその飾具の勘定に悩殺さる、あたかも猴を畜(か)う者が不断その破損する硝子(ガラス)代を償わざるべからざるごとしと。
ベロアル・ド・ヴェルビュの『上達方』に婦人は寺で天女、宅で悪魔、牀(とこ)で猴と誚(そし)り、仏経には釈尊が弟の難陀その妻と好愛甚だしきを醒(さ)まさんとて彼女の瞎(めっかち)雌猿に劣れるを示したと出づ。
それから意馬心猿(いばしんえん)という事、『類聚名物考』に、『慈恩伝』に〈情は猿の逸躁を制し、意は馬の奔馳(ほんち)を繋(つな)ぐ〉、とあるに基づき、中国人の創作なるように筆しあれど、予『出曜経』三を見るに〈意は放逸なる者のごとく、愛憎は梨樹のごとし、在々処々に遊ぶ、猿の遊びて果を求むるがごとし〉とあれば少なくとも心猿(ここでは意猿)だけは夙(はや)くインドにあった喩(たと)えだ。
『大和本草』に津軽に
果然は一名※(い)[#「虫+隹」、31-7]また仙猴(せんこう)、その鼻孔天に向う、雨ふる時は長い尾で鼻孔を塞(ふさ)ぐ、群行するに、老者は前に、少者(わかもの)は後にす。食、相譲り、居、相愛し、人その一を捕うれば群啼(ぐんてい)して相(あい)赴(おもむ)きこれを殺すも去らず。これを来すこと必(ひっ)すべき故、果然と名づくと『本草綱目』に見え、『唐国史補』には楽羊(がくよう)や史牟(しぼう)が立身のために子甥(しせい)を殺したは、人状獣心、この猴が友のために命を惜しまぬは、獣状人心だと讃美しある。
されば帝舜が天子の衣裳に十二章を備えた時、第五章としてこの猴と虎を繍(ぬいとり)したのを、わが邦にも大嘗会(だいじょうえ)等大祀(たいし)の礼服に用いられた由『和漢三才図会』等に見ゆ。二十年ほど前、予帰朝の直前仰鼻猴(ぎょうびざる)という物の標品がただ一つ支那から大英博物館に届きしを見て、すなわちその『爾雅(じが)』にいわゆる※[#「虫+隹」、31-15]たるを考証し、一文を出した始末は大正四年御即位の節『日本及日本人』六六九号へ録した。かくて津軽に果然の自生は誤聞として、台湾には猴の異種が少なくとも一あり、内地産の猴は学名マカクス・スベシオススの一種に限る。
猴はなかなか多種だが熱帯と亜熱帯地本位のもの故、欧州にはただ