猴に関する伝説(その2)

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     サルとは何の意か知らぬが巫女のおさ※(「けものへん+爰」、第3水準1-87-78)女の君と呼んだなどより考うると、本邦固有の古名らしく、朝鮮とアイヌの辞書があいにく座右にないからそれは抜きとして、ワリス氏が南洋で集めた猴の諸名を見るも、わずかにアルカ(モレラ語)、ルア(サパルア語)、ルカ(テルチ語)位がやや邦名サルに近きを知るのみ。

    マレイ語にルサあるが鹿を意味す。『翻訳名義集』に※(「けものへん+彌」、第3水準1-87-82)びこうの梵名摩斯※(「咤−宀」、第3水準1-14-85)あるいは※(「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2-94-57)※(「咤−宀」、第3水準1-14-85)とある。予が蔵する二、三の梵語彙を通覧するに、後者は猴の梵名マルカタと分るが摩斯※(「咤−宀」、第3水準1-14-85)らしい猴の梵名は一向見えぬ。

    しかるに和歌に猴を詠む時もっとも多く用いるマシラなる名は古来摩斯※(「咤−宀」、第3水準1-14-85)の音に由ると伝うるはいぶかし。ところが妙な事は十七世紀の仏人タヴェルニエーの『印度紀行』に、シエキセラに塔ありてインド中最大なるものの一なり、これに附属する猴飼い場ありて、この地の猴をも近国より来る猴をも収容し商人輩に供餉ぐしょうす。この塔をマツラと称うと載せ、以前はジュムナ河が塔下を流れ礼拝前身をきよむるに便りかったから巡礼に来る者極めて多かったが、その後河渓が遠ざかったので往日ほど栄えぬと述べあり。

    英国学士会員ボール註に、これは四世紀に晋の法顕ほっけんが参詣した当時、仏教の中心だった摩頭羅まずら国の名を塔の名と心得伝えたので、十七世紀のオーランゼブ王この地に入って多く堂塔をこぼったが、猴は今も市中に充満し住民に供養さるとある。

    法顕の遺書たる『法顕伝』『仏国記』共にこの地で仏法大繁盛の趣を書せど猴の事を少しも記さず。それより二百余年おくれて渡天した唐の玄奘げんじょうの『西域記』にはマツラを秣莵羅とし、その都のめぐり二十里あり、仏教盛弘する由を述べ、この国に一の乾いた沼ありてそのかたわらに一の卒塔婆そとば立つ、昔如来にょらいこの辺を経行した時猴が蜜を奉ると仏これに水を和してあまねく大衆に施さしめ、猴大いに喜び躍ってあなちて死んだが、この福力に由って人間に生まれたと載す。いと古くより猴に縁あった地と見える。
     『和州旧跡幽考』に猿沢池は天竺てんじく※(「けものへん+彌」、第3水準1-87-82)猴池を模せしと、池の西北の方の松井の坊に弘法こうぼう作てふ猴の像あり。毘舎利びしゃり※(「けものへん+彌」、第3水準1-87-82)猴池の西の諸猴如来の鉢を持って樹に登り蜜を採り、池の南の群猿その蜜を仏に奉ると『西域記』を引き居るが、仏はなかなかの甘口で猴はそれを呑み込んで人間に転生したさに毎々つねづね蜜をねぶらせたと見える。

    また『賢愚因縁経』十二に、舎衛しゃえ国の婆羅門ばらもん師質が子の有無を問うと六師はなしと答え、仏はあるべしという、喜んで仏と衆僧を供養す。それから帰る途上仏ある沢辺に休むと猴が蜜を奉り、喜んでって舞い坑に堕ち死して師質の子と生まる。美貌無双で、家内の器物、蜜で満たさる。相師いわくこの児善徳無比と、因って摩頭羅瑟質まずらしっしつあざなす。蜜勝の意だ。父母に乞うて出家す、この僧渇する時鉢を空中になげうてば自然に蜜もて満ち、衆人共に飲み足ると。

    『大智度論』二六に摩頭波斯咤比丘まずはしたびく梁棚りょうほうあるいは壁上、樹上におどり上がるとあるも同人だろう。
     これらの例から見ると、摩頭羅なる語の本義は何ともあれ、国としても人としても仏典に出るところ猴に縁あれば、猴の和名マシラはこれから出たのかと思わる


     本来サルなる邦名あるにマシラなる外来語をしばしば用いるに及んだは、仏教弘通(ぐつう)の勢力に因ったがもちろんながら、サルは去ると聞えるに反してマシラは優勝(まさる)の義に通ずるから専らこれを使うたと見える。

    『弓馬秘伝聞書』に祝言(しゅうげん)の供に猿皮の空穂(うつぼ)を忌む。『閑窓自語』に、元文二年春、出処不明の大猿出でて、仙洞(せんとう)、二条、近衛諸公の邸を徘徊せしに、中御門(なかみかど)院崩じ諸公も薨(こう)じたとあり。今も職掌により猴の咄(はなし)を聞いてもその日休業する者多し。

    予の知れる料理屋の小女夙慧なるが、小学読本を浚(さら)えるとては必ず得手(えて)と蟹(かに)という風に猴の字を得手と読み居る。かつて熊野川を船で下った時しばしば猴を見たが船人はこれを野猿(やえん)また得手吉(えてきち)と称え決して本名を呼ばなんだ。

    しかるに『続紀』に見えた柿本朝臣佐留(さる)、歌集の猿丸太夫、降(くだ)って上杉謙信の幼名猿松、前田利常(としつね)の幼名お猿などあるは上世これを族霊(トーテム)とする家族が多かった遺風であろう。

    『のせざる草紙』に、丹波の山中に年をへし猿あり、その名を増尾の権(ごん)の頭(かみ)と申しける。今もこの辺で猴神の祭日に農民群集するは、サルマサルとて作物が増殖する賽礼(さいれい)という。

    得手吉とは男勢の綽号(あだな)だが猴よくこれを露出するからの名らしく、「神代巻」に猿田彦の鼻長さ七咫(し)、『参宮名所図会』に猿丸太夫は道鏡の事と見え、中国で猴(こう)を狙(そ)というも且は男相の象字といえば(『和漢三才図会』十二)、やはりかかる本義と見ゆ。ある博徒いわく、得手吉は得而吉で延喜(えんぎ)がよい、括(くく)り猿(ざる)というから毎々縛らるるを忌んで猴をわれらは嫌うと。

     唐の黄巣こうそうが乱をし金陵を攻めんとした時、弁士往き向うて王の名はそう、それが金に入ると※(「金+樔のつくり」、第4水準2-91-32)となるとおどしたのですなわち引き去った(『焦氏筆乗』続八)とあると同日の談だ。

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    「猴に関する伝説」は『十二支考〈下〉』 (岩波文庫)に所収

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