猴に関する伝説(その30)

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     玄奘三蔵の『大唐西域記』十に、駄那羯礫迦国の城の東西に東山西山てふ伽藍あり。この国の先王がいかめしく立てたので霊神警衛し聖賢遊息した。仏滅より千年のうち毎歳千の凡夫僧ありてこの寺にこもり、終りて皆羅漢果を証し、神通力もて空をしのいで去った。千年の後は凡聖同居す。百余年このかたは坊主一疋もいなくなり、山神形をえあるいは豺狼さいろうあるいは※(「けものへん+爰」、第3水準1-87-78)えんゆう[#「けものへん+鴪のへん」、115-15]となりて行人を驚恐せしむ、故を以て、空荒くうこうげきとして僧衆なしとある。既にいったごとく、※(「けものへん+爰」、第3水準1-87-78)は手の長いさるで、※[#「けものへん+鴪のへん」、116-1]神楽鼻かぐらばなで鼻穴が上に向いた尾長猴じゃ。

    前年予田辺の一旅館で山の神がオコゼ魚に惚れ、 かわうそなかだちとして文通するを、かねてかの魚を慕いいた蛸入道たこにゅうどう安からず思い、烏賊いかえびを率いて襲い奪わんとし、オコゼ怖れて山奥に逃げ行き山の神に具して妻となる物語絵を見出し、『東京人類学雑誌』二九九号に載せ、また絵師に摸させ自分詞書ことばがきを写して米賓スウィングル氏に贈りしに、ス氏木村仙秀氏に表具してもらい、巻物となし今も珍蔵する由。

    それには山神を狼面に画きあった。今も狼を山神として専ら狩猟を司るとする処が熊野にある。ところが同じ熊野でも安堵峰辺で自ら聞いたは、山神女形で、山祭りの日一山に生えた樹木を算うるになるべく木の多きよう一品ごとに異名を重ね唱え「赤木にサルタに猴滑り」(いずれもヒメシャラ)「抹香まっこう、コウノキ、コウサカキ」(皆シキミの事)など読む。

    樵夫当日その内に読み込まるるを怕れて山に入らず、また甚だ男子が樹陰に自涜じとくするを好むと。佐々木繁君説に、山神、海神と各その持ち物の多きに誇る時、山神たちまち(オウチ?)にセンダン、ヤマンガと数え、相手のひるむを見て得意中、海神突然オクゼと呼びたるにより山神負けたとあるを見て、この話の海内かいだいに広く行き渡れるを知った。十分判らぬがオクゼは置くぞえで、海神いざこれから自分の持ち物を算盤に置くぞえと言いしを、山神オコゼ魚が自分の本名を知られたと合点して、敗亡したらしい。諸国に神も人も自分の本名を秘した例多い(『郷土研究』一巻七号)。いわゆる山祭りは陰暦十一月初めの申の日行う。けだしこの山神は専ら森林を司り、その祭日には自分の顔色と名に因んで、赤木に猿たに猿滑りと、一種の木を三様に懸値かけねして国勢調査すと伝えたのだ。

     牡猴が一たび自涜を知れば不断これを行い衰死に及ぶは多く人の知るところで、一八八六年板ドシャンプルの『医学百科辞彙』二編十四巻にも、犬や熊もすれど、猴殊に自涜する例多しと記し、医書にしばしば動物園の猴類の部を童男女に観するを戒めある。予壮時諸方のサーカスに随い行きし時、黒人などがほめき盛りの牝牡猴に種々みだりな事をして示すと、あるいは喜んで注視しあるいはねたんで騒ぐを毎度た。

    『十誦律』一に〈仏舎衛国にあり、爾時そのとき※(「りっしんべん+喬」、第3水準1-84-61)薩羅きょうさら国に一比丘あり、独り林中に住す、雌※(「けものへん+彌」、第3水準1-87-82)猴あり常にしばしばこの比丘の所に来往す、比丘すなわち飲食を与えてこれを誘う、※(「けものへん+彌」、第3水準1-87-82)猴心軟し、すなわち共に婬を行う、この比丘多く知識あり、来りて相問訊して一面にありて坐す、時に※(「けものへん+彌」、第3水準1-87-82)猴来りて婬を行わんと欲し、一々諸比丘の面を看る、次に愛するところの比丘の前に到り、とどまりてその面を諦視し、時にこの比丘心恥じ※(「けものへん+彌」、第3水準1-87-82)猴を視ず、※(「けものへん+彌」、第3水準1-87-82)いで瞋り、その耳鼻を攫し、傷破してすなわち去る、この比丘波羅夷を得、まさに共に住すべからず〉、巻五五に、仏毘舎離びしゃりにあった時、一比丘毎度余食を雌猴に与うると〈ついにすなわち親近し、東西を随逐し、乃至手捉して去らず、時に比丘すなわち共に不浄を行う、時に衆多の比丘房舎の臥具を案行し、次にかの林中に至り、かの※(「けものへん+彌」、第3水準1-87-82)猴来りて諸比丘の前にありて住し尾を挙げて相似を現わす、諸比丘、かくのごとき念を作す、この雌※(「けものへん+彌」、第3水準1-87-82)猴今我らの前にありて、相を現ずることかくのごとし、はた余比丘のこの※(「けものへん+彌」、第3水準1-87-82)猴を犯すあるなしか、すなわち隠れて屏処にありてこれを伺う、時に乞食比丘食を得て林中に還り、食しおわりて持して※(「けものへん+彌」、第3水準1-87-82)猴に与う、※(「けものへん+彌」、第3水準1-87-82)猴食しおわりて共に不浄を行う、かの諸比丘観見して、すなわちいていわく長老、仏比丘を制して不浄を行うを得ざるにあらずや、彼答えて言う、仏人の女を制して、畜生を制せず、時に諸比丘仏の所に往き云々〉、仏これを波羅夷罪はらいざいと断じた。この通り牝猴時として慾火さかんに人前に醜を露わす事もあるべく、それらの事より山神女性で男子の自涜を好むといい出したものか。

    『日本及日本人』七二五号に、『談海』十二に山神の像を言いて「猿のこうをへたるが狒々ひひという物になりたるが山神になる事といえり」、『松屋筆記』に『今昔物語』の美作みまさかの中参の神は猿とあるを弁じて、参は山の音で、中山の神は同国の一の神といえり、さて山神が猿なるより『好色十二男』に「かのえさるのごとき女房を持ち合す不仕合せ」とあるも、庚申の方へ持ち廻りたるなれど、面貌より女が山の神といわるる径路を案ずべし。必ずしも女房に限らざるは、『乱脛三本鑓みだれはぎさんぼんやり』に「下女を篠山に下し心に懸る山の神なく」とあると無署名で書いたは卓説だ。維新の際武名高く、その後長州に引隠して毎度東京へ出て今の山県やまがた公などを迷惑させた豪傑兼大飲家白井小助は、年不相応の若い妻を、居常きょじょう、猴と呼び付けたと、氏と懇交あった人に聞いたは誠か。予もその通りやって見ようとしばしば思えど、そこがそれ山の神がこわくて差し控える。

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    「猴に関する伝説」は『十二支考〈下〉』 (岩波文庫)に所収

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