(民俗2の9)
玄奘三蔵の『大唐西域記』十に、駄那羯礫迦国の城の東西に東山西山てふ伽藍あり。この国の先王がいかめしく立てたので霊神警衛し聖賢遊息した。仏滅より千年のうち毎歳千の凡夫僧ありてこの寺に
前年予田辺の一旅館で山の神がオコゼ魚に惚れ、
それには山神を狼面に画きあった。今も狼を山神として専ら狩猟を司るとする処が熊野にある。ところが同じ熊野でも安堵峰辺で自ら聞いたは、山神女形で、山祭りの日一山に生えた樹木を算うるになるべく木の多きよう一品ごとに異名を重ね唱え「赤木にサルタに猴滑り」(いずれもヒメシャラ)「
樵夫当日その内に読み込まるるを怕れて山に入らず、また甚だ男子が樹陰に
牡猴が一たび自涜を知れば不断これを行い衰死に及ぶは多く人の知るところで、一八八六年板ドシャンプルの『医学百科辞彙』二編十四巻にも、犬や熊もすれど、猴殊に自涜する例多しと記し、医書にしばしば動物園の猴類の部を童男女に観するを戒めある。予壮時諸方のサーカスに随い行きし時、黒人などがほめき盛りの牝牡猴に種々
『十誦律』一に〈仏舎衛国にあり、
『日本及日本人』七二五号に、『談海』十二に山神の像を言いて「猿の