1 樟柳神
『郷土研究』5巻4号223頁〔「支那および朝鮮における巫の腹話術について」〕に、孫晋泰君いわく、「樟柳神とは、清代の記録より現われたもので、その性質のいかなる物であるかは、いまだ私には判明しないけれども、云々」と。
樟柳神については、過ぐる明治28年4月25日の『ネイチャー』(51巻608頁)に、予がその説を書き、シュメルツがこれを自分発行の『インテルナチョナル・アルキヴ・フュル・エツノグラフィエ』へ、シュレーゲルがこれをその『通報(ツンパオ)』に転載し、大もてだったので、次年さらに予一世一代の長文を『ネイチャー』に出した。しかるに、これが諸学者に引用されることが度重なって、歳月の進むにしたがい、予の名は次第に振り落とされ、今はこれを受け売りした人の創説と心得た者も多い(例えば1909年版、ハートランドの『原始父権論』1巻46-47頁)。とにかく自分が一番早く気づいたことなので、左にこの神が何物であるかを再説しよう。
明の謝肇淛の説に、「『易」にいわく、莧陸夬々(けんりくかいかい)たり、と。陸は商陸なり。下に死人あれば、すなわち上に商陸あり。故にその根多くは人形のごとし。俗に樟柳根と名づくるはこれなり。これを取るの法、夜静かにして人なきに、油をもって梟の肉を炙ってこれを祭り、鬼火叢集するを俟って、しかる後その根を取り、家に帰って符をもってこれを煉ること七日なれば、すなわちよく言語す。一名は夜呼、また鬼神の義を取るなり。この草、赤白二種あり、白きものは薬に入る、赤きものは鬼を使う。もし誤ってこれを服すれば、必ずよく人を殺す。また『荊楚歳時記』に、三月三日、杜鵑(とけん:ホトトギス)初めて鳴く、田家これを候(うかが)う、杜鵑昼夜鳴き、血流れて止まず、商陸子熟するに至ってすなわち止む、けだし商陸(子) いまだ熟せざるの前は、正に杜鵑哀鳴の候なり、故に夜呼と称うるなり、と」と。
明の銭希言いわく、「梁渓の華別駕善継は、古えに博く奇を嗜み、詩才清靡にして、弟の善述と名を斉しくす。中歳のころ、間に投じ、喜んで仙鬼を談じ、方士に従って樟柳神を錬(なら)い、戯れに耳報術を学ぶ。のちに悔い、あえて学を竟(お)えず。この鬼に耳中に鑚入せられ、耳ついにもって聾となり、その身を終うるまで聴くあたわず」と。
また明の王同軌いわく、「閩人の武弁陳生、揚州の軍門に寓し、敵を料って奇中あり。 のち何吉陽先生、南少司寇に任ぜられ、大司馬の李克斎公の薦をもって至り、衙中におる。人の往事および家居、墳墓、園宅を談ずるに、これを掌に指すがごとし。生の挟むところ樟柳神あり。神わずか三寸ばかりにして、白面にして紅衣をつけ、よく袖より出で、躍って几(つくえ)の上に至る。水を飲むに歴々として声(おと)あり。時にみずから嘆じて閩語をなし、かつて儒生なりしが死にたり、しかして陳これを制取す、しかれども相随うこと久しからず、またまさに去るべしと謂う」と。
これらを合わせ考えると、商陸の赤いものの根を取って帰り、7日間符呪を仕掛ければ、死人の魂がその根に来て留まり、術者の問いに応じ、種々のことを告げるので、その神はときに小人の姿で現われ、術者の袖より出で、机の上に躍り上がり、水を飲みなどしたのだ。華別駕はその術を学びかけて中止したので、その神が怒って耳に深く入り、終生聾たらしめたというのだ(『五雑俎』一〇、末条。『獪園』一三。『寄園寄所寄』五)。いずれも明人の説なので、樟柳神の記録は清代に始まったという孫君の説は間違っている。(清の袁枚『随園随筆』一一、樟柳神は古く「楚語」にありとする。)