熊野本宮の惨状 現代語訳はこちら
よってその九牛の一毛を例示せんに、西牟婁郡川添村は、十
大字(おおあざ)、九村社、五無格社、計十四社を滅却伐木して
市鹿野(いちがの)大字の村社に合祀し、基本金一万円あるはずと称せしに、実際神林を伐り尽し、神殿を潰し、神田を売却して、得たるところは皆無に近かりし証拠は、この神殿が雨風のために破損を生じ、雨洩りて神体を汚すまでも久しく放置し、神職を
詰(なじ)るに、全く修繕費金なしとのことなり。
また日高郡
上山路(かみさんじ)村は、大小七十二社を
東(ひがし)大字の社に合併し、小さき
祠(ほこら)はことごとく川へ流さしむ。さて神体等を社殿へ並べて衆庶に縦覧せしめけるに、合祀を好まぬ狂人あり、あらかじめ合祀行なわるれば必ず合祀社を焼くべしと公言せしが、果たしてその夜、火を社殿に放ち、無数の古神像、古文書、黄金製の
幣帛(へいはく)、諸珍宝、什器、社殿と共にことごとく
咸陽(かんよう)の
一炬(いっきょ)に帰す。惜しむべきのはなはだしきなり。むかし水戸義公は日本諸寺社の古文書を写させ、火災を
虞(おそ)れて一所に置かず、諸所に分かち置かれしという。金沢文庫、足利文庫など、いずれも火災少なき辺土に立てられたり。
件(くだん)の上山路村の仕方は、火災の防ぎ十分ならぬ田舎地方の処置としては、古人の所為に比してまことに拙き
遣方(やりかた)とやいわん。さて焼けたる諸社の氏子へ一向通知せず、言わば神社が七十二も焼けたるは厄介払いというような村吏や神職の仕方ゆえ、氏子ら大いに憤り、事に触れて、一カ月前にも二大字
合従(がっしょう)して村役場へ推しかけ荒々しき振舞いありし。件の社の焼跡へ、合祀されたるある社の社殿を持ち来たり据えたるに、去年秋の大風に吹き飛ばされ、今に修覆成らず。人心合祀を好まず、都会には想い及ばざる難路を往復五、六里歩まずば参り得ぬ所ゆえ、大いに敬神の念を減じ、参らぬ神に社費を納めぬは自然の成行きなり。
熊野は本宮、新宮、那智を三山と申す。歴代の行幸、御幸、伊勢の大廟よりはるかに多く、およそ十四帝八十三回に及べり。その本宮は、中世実に日本国現世の神都のごとく尊崇され、諸帝みな京都より往復二十日ばかり山また山を
踰(こ)えて、一歩三礼して御参拝ありし。後白河帝が、脱位ののち本宮へ御幸三十二度の時御前にて、
『玉葉』 忘るなよ雲は都を隔つともなれて久しき三熊野の月
巫祝(みこ)に託して、神詠の御答えに、
暫くもいかが忘れん君を
守(も)る心くもらぬ三熊野の月
また後鳥羽上皇は、本宮焼けてのちの歳の内に
遷宮(せんぐう)侍りしに参りあいたまいて、
『熊野略記』 契りあらば嬉しくかかる折にあひぬ忘るな神も行末の空
万乗の至尊をもって、その正遷宮の折にあいたまいしを、かくばかり御喜悦ありしなり。しかるに、在来の社殿、
音無(おとなし)川の小島に
在(おわ)せしが、去る二十二年の大水に諸神体、神宝、古文書とともにことごとく流失し、只今は従来の地と全く異なる地に立ちあり。万事万物新しき物のみで、露軍より分捕の大砲など社前に並べあるも、これは器械で製造し得べく、また、ことにより外国人の悪感を買うの具とも成りぬべし。
これに反し、流失せし旧社殿跡地の周囲に群生せる老大樹林こそ、古え、聖帝、名相、忠臣、勇士、
貴嬪(きひん)、歌仙が、心を澄ましてその下に敬神の実を挙げられたる旧蹟、これぞ伊勢、八幡の諸廟と並んでわが国の誇りともすべき物なるを、一昨夏神主の社宅を造るとて
目星(めぼし)き老樹ことごとく伐り倒さる。吾輩故障を容れしに、氏子総代、神主と一つ穴で
※言(ようげん)揚々として、むかしよりかかる英断の神官を見ず、老樹を伐り倒さば跡地を桑畑とする利益おびただしとて、その時伐採り見て
哭(な)きし村民を嘲ること限りなし。その神主は他国の馬骨で、土地に何の関係なければ惜し気もなくかかる濫伐を遂げ、神威を損じ、たちまち何方へか転任し、今日誰が何と小言吐くも相手なければ全く狐に
魅(つま)まれしごとし。その前にも本宮の神官にして、賽銭か何かを盗み、
所刑(しょけい)されし者あり。あるいは言わん、衣食足りて礼を知り、小人究すれば濫するは至当なり。賽銭を盗み、神林を伐りて悪くば、神官に増俸すべし、と。これ取りも直さず、世道の標準たるべき神聖の職にある人が、みずからその志操を忘却して乞盗に
儔(たぐ)うるものなり。平田篤胤が世上の俗神職の多くを
謗(そし)りて、源順朝臣が『倭名抄』に
巫覡(ふげき)を乞盗部に入れたるを至当とせるを参考すべし。
「神社合祀に関する意見」は『南方熊楠コレクション〈5〉森の思想』 (河出文庫)に所収