(神社合祀の悪結果 第4 後編) 現代語訳はこちら
神社の社の字、支那では古く二十五家を一社とし、樹を植えて神を祭る。『白虎通』に、社稷に樹あるは何の故ぞ、尊んでこれを識して民人をして望んでこれを敬せしむ、これに
樹(う)うるにその地に産する木をもってす、とある由。大和の三輪明神始め熊野辺に、古来老樹大木のみありて社殿なき古社多かりし。これ上古の正式なり。『万葉集』には、社の字をモリと
訓(よ)めり。後世、社木の二字を合わせて木ヘンに土(杜字)を、神林すなわち森としたり。とにかく神森ありての神社なり。昨今三千円やそこらの金を無理算段して神社の設備大いに挙がると称する諸社を見るに、すでに神林の
蓊鬱(おううつ)たるなきゆえ、古えを忍ぶの神威を感ずのという念毛頭起こらず。あたかも支那の料理屋の庭に異ならず。ひたすら維持維持と言いて古制旧儀に背き、ブリキ屋根から、ペンキ塗りの鳥居やら、コンクリートの手火鉢、ガスの燈明やらで、さて先人が心ありて貴重の石材もて作り寄進せしめたる石燈籠、手水鉢、石鳥居はことごとく亡われ、古名筆の絵馬はいつのまにやら海外へ売り飛ばされ、その代りに娼妓や芸者の似顔の石板画や新聞雑誌の初刊付録画を掛けておる。外人より見れば、かの国公園内の雪隠か動物園内の水茶屋ほどの
※爾(さいじ)たる軽き建築ゆえ、わざわざこんな物を見に来るより、自国におりて広重や北斎のむかしの神社の浮世絵を集むるがましと長大息して、去りて再び来たらず。
邦人はまた急に信仰心が薄くなり、神社に詣るも家におるも感情に何の
異(かわ)りなく、その上合祀で十社二十社まるで
眼白鳥(めじろ)が籠中に押し合うごとく詰め込まれて境内も狭くなり、少し
迂闊(うか)とすれば柱や
燈架(ガスとうだい)に行き
中(あた)り、犬の
屎(くそ)を踏み腹立つのみ。
稲八金天大明権現王子(いなはちこんてんだいみょうごんげんのおうじ)と神様の合資会社で、混雑千万、俗臭紛々
難有味(ありがたみ)少しもなく、頭痛胸悪くなりて逃げて行く。小山健三氏、かつて日本人のもっとも快活なる一事は休暇日に古社に詣り、社殿前に立ちて精神を澄ますにあり、と言いしとか。かかることはむかしの夢で、如上の混成社団に望むべくもあらず。およそいかなる末枝小道にも、言語筆舌に述べ得ざる奥儀あり。いわんや、国民の気質品性を幾千年養成し来たれる宗教においてをや。合祀は敬神思想を盛んにすと口先で千度説くも何の功なきは、全国で第二番に合祀の多く行なわれたる和歌山県に、全国最多数の大逆徒と、無類最多数の官公吏犯罪(昨年春までに二十二人)を出し、また肝心の神職中より那智山事件ごとき破廉恥の神官を出せるにて知るべし。また近年まで外国人口を揃えて、日本人は一種欧米人に見得ざる謹慎優雅の風あり、といえり。封建の世に圧制され、鎖国で
閑(ひま)多かりしゆえにもあるべけれど、要は到る処神社古くより存立し、
斎忌(ものいみ)の制厳重にして、幼少より崇神の念を頭から足の先まで浸潤せることもっともその力多かりしなり。(このことは、明治三十年夏、ブリストル開会の英国科学奨励会人類学部発表の日、部長の演説に次いで、熊楠、「
日本斎忌考(ゼ・タブー・システム・イン・ジャパン)」と題し、読みたり。)
神社の人民に及ぼす感化力は、これを述べんとするに言語杜絶す。いわゆる「何事のおはしますかを知らねども有難さにぞ涙こぼるる」ものなり。
似而非(えせ)神職の説教などに待つことにあらず。神道は宗教に違いなきも、言論理窟で人を説き伏せる教えにあらず。本居宣長などは、仁義忠孝などとおのれが行なわずに事々しく説き勧めぬが神道の特色なり、と言えり。すなわち言語で言い顕わし得ぬ冥々の裡に、わが国万古不変の国体を一時に頭の頂上より
足趾(あしゆび)の
尖(さき)まで感激して忘るる能わざらしめ、皇室より下
凡民(ぼんみん)に至るまで、いずれも日本国の天神地祇の
御裔(みすえ)なりという
有難(ありがた)さを言わず説かずに悟らしむるの道なり。古来神殿に宿して霊夢を感ぜしといい、神社に参拝して迷妄を
闢(ひら)きしというは、あたかも古欧州の神社神林に詣でて、哲士も愚夫もその感化を受くること大なるを言えるに同じ。別に神主の説教を聴いて大益ありしを聞かず。真言宗の秘密儀と同じく、何の説教講釈を用いず、理論実験を要せず、ひとえに神社神林その物の存立ばかりが、すでに世道人心の化育に大益あるなり。八年前、英ヘンリー・ダイヤー、『大日本』という書を著わし、欧米で巡査の
十手(じって)を振らねば治まらぬ群集も、日本では藁の
七五三繩(しめなわ)一つで禁を犯さず、と賞賛せり。この感化力強き七五三繩は、今や合祀のためにその権威を失いつつあるなり。合祀が人情を薄うし風俗を乱すこと、かくのごとし。
「神社合祀に関する意見」は『南方熊楠コレクション〈5〉森の思想』 (河出文庫)に所収