(概説の6)
右に引いた『韓詩外伝』の文で分る通り、鶏の五徳は雄鶏に限った事で、牝鶏に至っては古来支那で面白からぬ噂あり。牝鶏の晨するを女が威強くなる兆として太く忌んだが、近頃かの邦の女権なかなか盛んな様子故、牝鶏が時作っても怪しまれぬだろう。英国でも女に制せらるる骨なし男をヘン・ベックト、牝鶏に啄かるるという。グベルナチスいわく、イタリア、ドイツおよびロシアに広く信ぜらるるは牝鶏が牡鶏同然に鳴く時は大凶兆たり。これを聞いた者自分の死を欲せずんば即座にこれを殺すべしと。ペルシャでは牡鶏よく悪鬼を殺すとて墓所にこれを放ち飼いにす。ただし牝鶏の晨するを忌む。論士サッダーこれを駁して牝鶏の晨するものは牡鶏同様魔を殺すの功あろうから殺すべからずと言うた。シシリーではかかる牝鶏は売りも餽りもせず、主婦が食うべしという由。
熊楠案ずるにスエーデンで同心結(コンヌビァル・ノット)を結ぶ内、新婦が婿より前に進みまたわざとらしからぬように手巾を落すと婿が拾ってくれる。かくすると一生嬶旦那で暮し得と信ず(ロイドの『瑞典小農生活』八六頁)。それと同流の心得で、晨する牝鶏を食えば主婦が亭主を尻に敷き続け得と信じたのだ。本邦にも牝鶏の晨するを不吉とした。『碧山日録』に、長禄三年六月二十三日癸卯、天下飛語あり、諸州の兵窃かに城中に屯す、けだし諸公預め禍の及ぶを懼るるなり。あるいは曰く、北野天満神の廟の牝鶏晨を報ずるなり。神巫これを朝に告ぐというと見ゆ。この時女謁盛んで将軍家ばかりか大諸侯の家また女より大事起らんとしたからこんな評判も立ったのだ。
大正八年三月の『飛騨史壇』、故三嶋正英の『伊豆七島風土細覧』に新島の乱塔場に新しく鶏を放ち飼った土俗を載せある。これは卵を食用にするためのよう読まるるが、あるいはもと右述ペルシア同前悪魔除けにしたのかとも考う。『松屋筆記』五に浅草観音に鶏を納むるに日を経れば雌鶏必ず雄に変ず、仏力にてかくのごとしとあるが、霊境で交合したり雛を生み、ピーピー走り廻られては迷惑故、坊主が私かに取り替えたであろう。
それについて思い出すは李卓吾の『開巻一笑』続二に、陳全遊は金陵の妓なり、詞章に高く多く題詠あり云々、一日隣奴何瓊仙なる者と同飲す、たまたま雄雌鶏相交わるを見、仙請うてこれを詠ぜしむ、その詞に曰く〈汝霊禽にして走獣にあらず、風流の事誰かあらざらん、ただ好く背地に情を偸む、なんぞ当場の呈醜を許さん、かくのごときは律に罪を問うを休めよ、まさにみな笞杖徒流すべし、更に一等を加えて強論せば、殺し来りて我がために下酒とせん〉とは、さすがに詩の本場だけあってよく詠んだ。
『五雑俎』に、景物悲歓何の常かこれあらん、ただ人のこれに処する如何というのみ、詩に曰く風雨晦し、鶏鳴いてやまずと、もとこれ極めて凄涼の物事なるを、一たび点破を経れば、すなわち佳境と作ると。さればゲーテはいかな詰まらぬ事をも十分に文想を振うて至極面白く詠んだとショッペンハウエルは讃めたと記憶する。
『常山紀談』に、池田輝政、武士の重宝とすべきは領分の百姓と譜代の士と鶏と三品なり。そを如何と言うに、百姓は田畑を作りて我上下の諸卒を養う、これ一の重宝なり。譜代の士たとえ気に応ぜずして扶持を放すといえども、敵国にてかの者を扶持放たると思わずして間にも入るるかと思うて疑う故、敵国に逗留する事能わずしてついには我国へ帰りわが兵となる故これ二の宝なり。
また目に見ゆる合図、耳に聞ゆる相図は敵の耳目に掛かる故容易く敵国にて成しがたし、鶏鳴は誰もその相図ぞと知らざる故に、すなわち敵国の鶏鳴にて一番鳥にて人衆を起し、二番鳥にて食い、三番鳥にて立つなどと相図を極めて敵もその相図を知らざるの徳あり、これを三の重宝と立てしなりと宣うと見え、吉田久左衛門陣中に鶏を飼いしを、時を知るべき心掛け奇特なりとて、家康が感じた由『備前老人物語』に見える。時計始めて渡来した時これを鶏の時を報ずるに比べて明人が時鶏と書いたは、北斗の形した針が時を指し自ずから鳴いて人に知らす事鶏のごとくなる故と白石先生の『東雅』に出づ。慶安元年板『千句独吟之俳諧』には「枕上の時鶏に夢を醒されて」「南蛮人の月を見るさま」と時鶏の字を用い居る。
古アテネで娼妓を牝鶏と綽名した。これは婉転反側して男客を俟つの状に象り、またカワセミと称えたは路傍に待ちいて客人を捉うるの手速きに拠ったのだ。それから昔尖塔の頂上に板を雄鶏に造って立て、僧徒にこの板が風に随うて動きやまぬごとく少しも懈らぬよう訓えたとジュカンシュは言ったが、グラメー説には、塔頂に十字架に添えて鶏の形を設くるは、ゴット人が雄鶏の武勇にあやかるためこれを軍旗とした遺風という。今は塔上に限らず、民家の屋根にも風見の鉄板を立てるを、鶏の形をせざるになお天気鶏(ウェザー・コック)と呼ぶは右の訳である(ハズリット、二巻六二六頁、ウェブストルの大字書)、欧州で昔カワセミの嘴を括って全身を掛け置くと、その屍が風の方角を示すと信ぜられ、英国のサー・トマス・ブラウンが実験したところ一向不実と知れた(ブ氏の『俗説弁惑』三巻九章)。
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