(虎と人や他の獣との関係2)
虎を殺した者を褒むるは虎棲む国の常法だ。秦の昭襄王の時白虎害を為せしかば能く殺す者を募る、夷人廖仲薬[#ルビの「りょうちゅうやく」は底本では「こうちゅうやく」]秦精等弩を高楼に伏せて射殺す、王曰く虎四郡を経すべて千二百人を害せり、一朝これを降せる功焉より大なるはなしとて石を刻んで盟を成したと『類函』に『華陽国志』を引いて居るが、かかる猛虎を殺した報酬に石を刻んで盟を成したばかりでは一向詰まらぬ、きっと何物かくれたのじゃろう。
一六八三年ヴェネチア版、ヴィンツェンツォ・マリア師の『東方遊記』に西インドコチン王は躬ら重臣輩の見る所で白質黒条の虎を獲るにあらざれば即位するを得ず、この辺の虎に三品あり武功の次第に因ってそれぞれの虎の皮を楯に用い得る、また虎を殺した者は直ちにその鬚と舌を抜き王に献ず、王受け取ってこれを焼きその勇者に武士号を与え金また銀に金を被せたる環中空にして小礫また種子を入れたるを賜う。勇士これを腕に貫けば身動くごとに鳴る事鈴のごとし。かくて虎の尸もしくはその一部を提え諸方を巡遊すれば衆集まり来りてこれを見贈遺多く数日にして富足るとある。
これに似た一事を挙げんにアフリカの仏領コンゴー国では蟹(ンカラ)を海の印号とし虎に縁近き豹(ンゴ)を陸の印号としまた王家の印号とす。因って豹を尊ぶ事無類で王族ならではその皮を衣るを得ず、これを猟り殺すに種々の作法あり、例せばデンネットの『フィオート民俗篇』(一八九七年版)十八章に「豹を殺した者あると聞いて吾輩忙いで町へ還った、何故というと豹が殺された時は各町民が思うままに他町民と勝手次第に相掠奪す、殺した人が豹皮を王に献ずる日はその人思い付きのまま町のどの部分でも通り、その間家内にさえなくば何でもかでも押領し得るんだ、さてかの者自身縛られて王前に詣り叮嚀に豹首を布に包み携う、王問う「吾子よ何故汝はこの人(豹)を殺したか」、豹殺し対う「彼は甚だ危険な人で王の民の羊や鶏を夥しく殺しました」、王いわく「吾子よ汝は善くした、それじゃ彼の髯を数え見よ、汝も知る通りすべて三九二十七毛あるはずだ、一つでも足らなんだら汝は孤に布二匹を賠わにゃならぬ」、
かの者答う「父よ勘定が合うて二十七毛確かにござります」、王「そんなら注意髯を皆抜け、次に歯と爪と皮もことごとく取って孤の用に立てよ」、豹殺し命のまにまに抜き取り剥ぎ取りおわる、ここにおいて王言う「吾子よ汝は大勇の猟師だから爾後狩に出る時食事を調うる者を欲しいだろ、因ってこの若い嬢子を汝の婢なり妾なりにして取って置け」と聞いて豹殺し腰抜かすばかり悦びながら「父様見やんせ、余りに衣類が弊れているので、とてもこんな結構な品を戴かれません」、王「吾子よ最もな事を吐す、さらばこの衣類を遣わすからそこで着よ」、豹殺し「父様有難くて冥加に余って誠にどうもどうも、しかしこんな尤物に木を斫ってやる人がござらぬ」、王「委細は先刻から承知の介だ、この少童を伴れ去って木を斫らすがよい、またこの人を遣るから鉄砲を持たせ」、豹殺し「父よ今こそ掌を掌って御礼を白します」、そこで王この盛事のために大饗宴を張る」とある。小説ながら『水滸伝』の武行者や黒旋風が虎を殺して村民に大持てなところは宋元時代の風俗を実写したに相違ない。
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「虎に関する史話と伝説民俗」は『十二支考〈上〉』 (岩波文庫)に所収