(虎に関する民俗5)
西北インドの俗、表が裏より狭き家をガウムクハ(牛顔)、表が裏より広き家をシェルダハン(虎顔)と呼び、牛顔を吉虎顔を凶とす(『パンジャブ・ノーツ・エンド・キーリス』第十六記)。仏教の第二祖阿難の本名舎頭諫、これは虎の耳の義だ。
虎を名とした本邦人で一番名高いのは、男で加藤虎之助女で大磯の虎女だろ。依って本篇の終りに余り人の気付かぬ事を二つ述べる、まず大磯のお虎さんは『曾我物語』四に、母は大磯の長者父は一年東に流されて伏見大納言実基卿、男女の習い旅宿の徒然一夜の忘れ形見なりと見えるが、『類聚名物考』四十に『異本曾我物語』に「この虎と申す遊君は母は元来平塚の者なり、その父を尋ぬれば去る平治の乱に誅せられし悪右衛門督信頼卿の舎兄民部少輔基成とて奥州平泉へ流され給ふ人の乳母子に宮内判官家長といひし人の娘なり、その故はこの人平治の逆乱によりて都の内に住み兼ねて東国へ落ち下り相模国の住人海老名の源八権守季貞と都にて芳心したりし事ありける間この宿所を頼みてゐたりける。年来になりければ平塚の宿に夜叉王といふ傾城のもとへ通ひて女子一人設けたり寅の年の寅の月の寅の日に生まれければその名を三虎御前とぞ呼ばれける。
かくていつき育てしほどに十五歳の時家長空しくなりぬ。父死して後母に附いてゐたりしが宿中を遊びつるを容の好きにつれて大磯宿の長者菊鶴といふ傾城乞ひ受けて我娘として育てける。かくて虎十七歳十郎二十歳の冬よりも三年が間偕老の契り浅からず云々」とありと引いた。文中に見る基成は泰衡らの外祖父で義経戦死の節自殺した。『東鑑』建久四年六月十八日故曾我十郎が妾(大磯の虎除髪せずといえども黒衣袈裟を着す)箱根山の別当行実坊において仏事を修し(中略)すなわち今日出家を遂げ信濃国善光寺へ赴く時に年十九とある。建久四癸丑年に十九なら安元元乙未年すなわち未歳生まれで寅歳でない、『東鑑』は偽りなしだから『異本曾我物語』は啌で寅歳生まれで虎と名づけたでなく寅時にでも生まれたのだろ。
次に加藤清正の子忠広幼名虎藤丸(古橋又玄の『清正記』三)藤原氏で父の稚名を虎之助といったからの名だ。この人は至って愚人だったよう『常山紀談』など普通書き立て居るが、随分理窟の立っていた人だったのは塩谷宕陰の『照代記』その改易の条を見ても判る、曰く〈ここにおいて忠広荘内に百石を給い(その子)光正を飛騨に幽し廩百人口を給う、使者本門寺に往き教を伝う、忠広命を聴き侍臣に命じて鹵簿中の槍を取り、諸を使者に示して曰く、これ父清正常に把るところ、賤岳に始まり征韓に至る大小百余戦、向うところ敵なし、庚子の役また幕府のために力を竭し以て鎮西の賊を誅す、伝えて忠広に至り、以て大阪に従役す、而今かくのごとし、また用ゆるところなし、すなわち刃を堂礎に※[#「事+りっとう」、85-13]し以てこれを折る。荘内に在るに及んで左右その人を非るを見、詩を賦して以て自ら悲しむ、三十一年一夢のごとく、醒め来る荘内破簾の中の句あり、聞く者これを怜れむ〉。
英人リチャード・コックス『江戸日本日記』一六二二年(元和八年)二月二十一日の条、コックス江戸にあり芝居に之く途上オランダ館に入り肥後か肥前の王に邂逅す、武勇な若い人で年々五十万石を領す、今蘭人に事え居る僕一人、先にかの王に事えた縁によりオランダ館を訪ねたのだ。彼予に語る予この日オランダ館へ来なんだら予をも訪ぬるつもりだったと。彼予に対するにその礼を尽くし彼の領国へ往けばすべての英国人を優待せんと申し出でられたと筆し居る。
一七三二年版チャーチルの『航記紀行集函』巻一に収めたる元和寛永頃カンジズス輯録『日本強帝国摘記』にカットフィンゴノカミ(加藤肥後守、即ち忠広)五十五万四千石、ナビッシマシナノ、フィスセン、ロギオイス(鍋島信濃、肥前名護屋)三十六万石とあり、コックスが肥後か肥前の王五十万石を領すといえるは忠広なる事疑いなくこの人勇武なるのみならず外人に接する礼に閑い世辞目なき才物たりしと見ゆ。(完)
(大正三年七月、『太陽』二〇ノ九)。
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「虎に関する史話と伝説民俗」は『十二支考〈上〉』 (岩波文庫)に所収