虎に関する史話と伝説民俗(その39)

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虎に関する史話と伝説民俗インデックス

  • (一)名義の事
  • (二)虎の記載概略
  • (三)虎と人や他の獣との関係
  • (四)史話
  • (五)仏教譚
  • (六)虎に関する信念
  • (七)虎に関する民俗
  • (付)狼が人の子を育つること
  • (付)虎が人に方術を教えた事

  • 虎に関する民俗5)



     西北インドの俗、表が裏より狭き家をガウムクハ(牛顔)、表が裏より広き家をシェルダハン(虎顔)と呼び、牛顔を吉虎顔を凶とす(『パンジャブ・ノーツ・エンド・キーリス』第十六記)。仏教の第二祖阿難あなんの本名舎頭諫ザルズーラ・カルナ、これは虎の耳の義だ。

    虎を名とした本邦人で一番名高いのは、男で加藤虎之助女で大磯の虎女だろ。依って本篇の終りに余り人の気付かぬ事を二つ述べる、まず大磯のお虎さんは『曾我物語』四に、母は大磯の長者父は一年ひととせ東に流されて伏見大納言ふしみだいなごん実基さねもと卿、男女の習い旅宿の徒然つれづれ一夜の忘れ形見なりと見えるが、『類聚名物考るいじゅめいぶつこう』四十に『異本曾我物語』に「この虎と申す遊君は母は元来平塚の者なり、その父を尋ぬればさんぬる平治の乱にちゅうせられし悪右衛門督信頼卿の舎兄民部少輔みんぶのしょう基成とて奥州平泉へ流され給ふ人の乳母子めのとご宮内判官くないほうがん家長いえながといひし人の娘なり、その故はこの人平治の逆乱によりて都の内に住み兼ねて東国へ落ち下り相模国さがみのくにの住人海老名えびなの源八権守ごんのかみ季貞と都にて芳心したりし事ありける間この宿所を頼みてゐたりける。年来としごろになりければ平塚の宿に夜叉王やしゃおうといふ傾城けいせいのもとへ通ひて女子一人設けたり寅の年の寅の月の寅の日に生まれければその名を三虎御前とぞ呼ばれける。

    かくていつき育てしほどに十五歳の時家長むなしくなりぬ。父死して後母に附いてゐたりしが宿中を遊びつるをかたちきにつれて大磯宿の長者菊鶴といふ傾城乞ひ受けて我娘として育てける。かくて虎十七歳十郎二十歳の冬よりも三年が間偕老かいろうの契り浅からず云々」とありと引いた。文中に見る基成は泰衡やすひららの外祖父で義経戦死の節自殺した。『東鑑あずまかがみ』建久四年六月十八日故曾我十郎が妾(大磯の虎除髪せずといえども黒衣袈裟けさを着す)箱根山の別当行実坊において仏事を修し(中略)すなわち今日出家を遂げ信濃国善光寺へ赴く時に年十九とある。建久四癸丑みずのとうし年に十九なら安元元乙未きのとひつじ年すなわち未歳生まれで寅歳でない、『東鑑』は偽りなしだから『異本曾我物語』はうそで寅歳生まれで虎と名づけたでなく寅時にでも生まれたのだろ。

    次に加藤清正の子忠広幼名虎藤丸(古橋又玄の『清正記』三)藤原氏で父の稚名を虎之助といったからの名だ。この人は至って愚人だったよう『常山紀談じょうざんきだん』など普通書き立て居るが、随分理窟の立っていた人だったのは塩谷宕陰しおのやとういんの『照代記』その改易の条を見てもわかる、曰く〈ここにおいて忠広荘内に百石を給い(その子)光正を飛騨に幽し※(「飮のへん+氣」、第4水準2-92-67)きりん百人口を給う、使者本門寺に往き教を伝う、忠広命を聴き侍臣に命じて鹵簿ろぼ中の槍を取り、これを使者に示して曰く、これ父清正常にるところ、賤岳しずがたけに始まり征韓に至る大小百余戦、向うところ敵なし、庚子の役また幕府のために力をつくし以て鎮西ちんぜいの賊を誅す、伝えて忠広に至り、以て大阪に従役す、而今かくのごとし、また用ゆるところなし、すなわち刃を堂礎に[#「事+りっとう」、85-13]し以てこれを折る。荘内に在るに及んで左右その人をそしるを見、詩を賦して以て自ら悲しむ、三十一年一夢のごとく、醒め来る荘内破簾の中の句あり、聞く者これをあわれむ〉。

    英人リチャード・コックス『江戸日本日記』一六二二年(元和げんな八年)二月二十一日の条、コックス江戸にあり芝居にく途上オランダ館に入り肥後か肥前の王に邂逅す、武勇な若い人で年々五十万石を領す、今蘭人につかえ居る僕一人、先にかの王に事えた縁によりオランダ館を訪ねたのだ。彼予に語る予この日オランダ館へ来なんだら予をも訪ぬるつもりだったと。彼予に対するにその礼を尽くし彼の領国へ往けばすべての英国人を優待せんと申し出でられたと筆し居る。

    一七三二年版チャーチルの『航記紀行集函ア・コレクション・オヴ・ヴォエイジス・エンド・トラヴェルス』巻一に収めたる元和寛永頃カンジズス輯録『日本強帝国摘記サム・キュリアス・リマークス・オヴ・ジャパン』にカットフィンゴノカミ(加藤肥後守、即ち忠広)五十五万四千石、ナビッシマシナノ、フィスセン、ロギオイス(鍋島なべしま信濃、肥前名護屋なごや)三十六万石とあり、コックスが肥後か肥前の王五十万石を領すといえるは忠広なる事疑いなくこの人勇武なるのみならず外人に接する礼にならい世辞目なき才物たりしと見ゆ。(完)

    (大正三年七月、『太陽』二〇ノ九)。

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    「虎に関する史話と伝説民俗」は『十二支考〈上〉』 (岩波文庫)に所収

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