(虎に関する信念5)
晋の釈宝唱の『比丘尼伝』二に〈竹林寺の静称尼戒業精苦、誦経四十五万言云々、常に一虎あり、称に従って去来す、もし坐禅せば左右に蹲踞す、寺内諸尼もし罪失を犯し、時に懺悔せずんば、虎すなわち大いに怒り、懺悔もし竟ればすなわち怡悦す〉、同書一に明感という尼、虜賊に獲られ辱を受けず牧羊に使われ、苦役十年、一比丘に遇うて五戒を授かり、昼夜観音経を念ずると斑虎に導かれ故郷へ還り得たと載す、智者大師の『観世音義疏』に晋の恵達、凶年に甘草掘るとて餓えた羌人群に捕われ、かの輩肥えた人からまず食うので達と一小児と残さる、明日は食わるるに相違ない今宵限りの命と懸命に称名誦経すると、暁近く羌人が引き出しに来るところへ虎跳り出で、諸羌人を奔らし達と小児と免れ得た、これだから信心せにゃならぬとある。ロガンの『ジョホールのビヌア人誌』にポヤンは僧と医を兼ねた一級で、病を治するのみかはまた病を生ぜしむる力あり、ポヤン毎に虎の使い物一疋常住附きいる、人虎に啖わる時はその虎の主ポヤンの機嫌を損じた報いと信ぜらると見ゆ、一八三二年インドのマニプル州を巡察したグランド大尉の説に、クボ人はこの辺の虎滅多に人を襲わぬとて、虎に近くいるを一向恐れず、ただし一度人を啖わば十の九は以後やむ事なき故、村を移してその害を避くる、虎人肉の味を覚えて人を搏ち始むると謂わず、その地の神怒れるに由ると信じ、虎初めて人を食えば神に捧物してこれを鎮むれど、二度目に人食わるれば神の怒りやまぬつもりで村を移すと。リヴァースの『トダ人族篇』にいわく、トダ人信ずある特殊の地を過ぐるに手を顔に中て四方を拝せずば虎に食わると。またいう最初の神ピチーの子オーン、水牛とトダ人を創造し、今は冥界の王たり。
その子プイヴ水に指輪を落し拾わんとして溺死す。オーン子を独り冥界にくに忍びず、自分も往かんとて告別に一切の人水牛および諸樹を招ぶに、皆来れどもアルサンクタンてふ人の一族とアルサイイルてふ水牛の一族と若干種の樹は来らず。オーンこれを詛う。それからアルサンクタンの一族はクルムバ術師の呪に害せられ、アルサイイル族の水牛は毎度虎に啖われ、かの時来なんだ諸樹は苦き果を結ぶと。
これらは現世で神に代って虎が罰を行うのだが、死んで後も虎に苦しめらるるてふ信念もその例ありだ。『巫来半島異教民種篇』二二二頁に、セマン人は酋長死なばその魂虎に移ると信ず。ヴォワン・スチヴンス説にセマン人は以前黒焦にせる棒一本を毒蛇また虎の尸の上もしくは口の前に置き、あるいは木炭もて虎の条紋に触れ、冥途で虎の魂が人の魂に近づくを予防す。
ただし虎も蛇も時に地獄悪人の魂を驚かすと信ぜらると、仏経にも禁戒具足しいまだかつて行欲せざる浄行童女善比丘尼を犯し破戒せしめた者、死して大焦熱大地獄に堕ちる。臨終に男根縮んで糞門に入り、大苦悩し、最後に他世相を見る。たとえば悪色不可愛、一切猛悪ことごとく具われる獅虎等を見、悪虎の声を聞き大恐怖を生ず。また妄語して他人を罰せしめ愉快と心得た奴は、死して大叫喚地獄の双逼悩部に落ち、牙獅子に食われ死して活きまた食わるる事千百歳、この獅の歯の中に火充満し、噛めば焼く痛さと熱さの二苦を受くるのだ、この他豺狼地獄、銅狗、鉄鳥など種々罪人を苦しむる動物がある(『正法念処経』十および十一、『経律異相』四九)。
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「虎に関する史話と伝説民俗」は『十二支考〈上〉』 (岩波文庫)に所収