シェフネルの『西蔵説話(チベタンテイルス)』(一九〇六年版)には昔林中に牝獅と牝虎各子一疋伴れたるが棲んだ、ある日獅の不在にその子蕩(まよ)うて虎に近づいたので虎一度はこれを殺そうと惟(おも)うたが、自分の子の好侶と思い翻してこれを乳育(そだつ)る、牝獅帰って子が失せたるに驚き、探り行きて牝虎が乳呑ませ居るところへ来ると、大いに愕き逃げ出すを牝獅が呼び止め何と爾今(じこん)一処に棲んで(なんじ)が不在には我がの児を守り我不在にはわが児をに託する事としようでないかというと、虎も応諾して同棲し、獅児を善牙、虎の児を善搏と号(な)づけ生長する内、母獣両(ふたつ)ながら病んで臨終に両児を戒め、汝らは同じ乳を吸うて大きくなったから同胞に等し、世間は讒人で満ち居るから何分讒言に中(あ)てられぬよう注意せよと言って死んだ、善牙獅毎(いつ)も(ガゼル)を殺すと肉を啖い血を啜(すす)って直ちに巣へ帰ったが、善搏虎はを殺すに疲るる事夥しく血肉を啖いおわって巣へ帰るに長時間を費やした、因って残肉を蔵(かく)し置き一日それを(くら)って早く帰ると獅が今日汝何故早く帰るぞと問う、虎答うらくわれ貯え置いた肉を啖って事が済んだからだ、獅重ねて問う汝は残肉を貯うるか我は殺した物をその場で食い後へ貯うる事なしと、虎それは汝が強き故で我は弱いから残肉を貯えざるを得ぬと答えた、獅それは不便だ以後我と伴れて出懸くべしとて一緒に打ち立つ事とした、従来善牙獅の蹤(あと)を追い残肉を食い行く性悪の一老野干あり、今虎が獅と連れ行く事となって自分の得分が乏しくなったのを憾(うら)み離間策を案出し、耳を垂れて獅に近づきかの虎奴(め)は毎度獅の残肉を食わさるるが嫌だから必ず獅を殺そうと言いおると告げると、獅野干にその両母の遺誡を語り已後(いご)かかる事を言うなと叱った、野干獅我が忠告を容れぬから碌な事が起るまいと呟く、どんな事が起るかと問うと虎が巣から出て伸(のび)し欠(あくび)し四方を見廻し三たび吼えて汝の前に来り殺さんと欲する事疑いなしと言うた、次に野干虎を訪れ前同様獅を讒すると虎もまた両母の遺誡を引いて受け付けぬ、野干我が忠告を容れねば必ず兇事に遭わん獅栖(す)より出て伸し欠し四方を見廻し三たび吼えて後汝の前に来り殺意を起すべしという、虎も獅も栖より起き出る時かようにするが癖だから今まで何とも気に懸けなんだが、野干の告げに心付いて注意しおると獅巣から出るとて右のごとく振舞う虎も起き出てかく動作した、各さては彼我を殺すつもりと気色立ったが獅心中に虎は我より弱きに我を殺さんと思い立つとは不思議だ、仔細ぞあらんと思い直し、虎が性質敏捷勢力最勝の我に敵せんとは不埒(ふらち)だと言うと、虎も獅子が性質敏捷勢力最勝の我に敵せんとは不埒だと言った、獅虎にかかる言を誰に聞いたかと詰(なじ)ると野干が告げたと答う、虎これを獅に詰るとやはり野干が告げたと答う、獅さてはこの者が不和の本元だと合点してやにわに野干を打ち殺したとある。
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「虎に関する史話と伝説民俗」は『十二支考〈上〉』 (岩波文庫)に所収
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