(話の本文5)
『太平記』に、竜神が秀郷に、太刀、巻絹、鎧、俵、鐘、五品を与えたとあれど(『塵添嚢抄』十九には如意、俵、絹、鎧、剣、鐘等とあり、鎧は阪東の小山、剣は伊勢の赤堀に伝うと)、巌谷君が、『東洋口碑大全』に引いた『神社考』には、太刀のほかの四品、『和漢三才図会』には太刀、鎧、旗、幕、巻絹、鍋、俵、庖刀、鐘と心得童子、計九品と一人、太刀の名遅来矢と出づ。
寛永十年頃筆せられた『氏郷記』巻上にも、如上の十種を挙げた。鍋を早小鍋、俵を首結俵とし居る。また一伝に、露という硯も将来したが竹生島へ納むとあり、太刀は勢州赤堀の家にあり、避来矢の鎧は下野国佐野の家にあり、童は思う事を叶えて久しく仕えしが、後に強う怒られて失せしとかや、巻絹は裁ち縫うて衣裳にすれども耗らず、衣服に充満けるが、後にその末を見ければ延びざりけり、鍋は兵糧を焼くに、少しの間に煮えしとなり。これも後には底抜けて、その破片は蒲生家にありとぞ聞えし、俵は米を取れども耗らず、粮も乏しき事なし、それ故に名字を改め、俵藤太とぞ申しける。
されども、将門退治の後、ある女房俵の底を叩いて米を開ければ、一尺ばかりの小蛇出で去りしより、米出でざりけり、これより始まりて、今俵の底を叩かぬ謂れとなり、また秀郷の末孫、陣中にて女房を召し仕わざるも、この謂れとかや云々。秀郷を神と崇めて勢多に社あり(『近江輿地誌略』に、勢多橋南に秀郷社竜王社と並びあり、竜王社は世俗乙姫の霊を祭るという、傍なる竜光山雲住寺縁起に、秀郷水府に至りて竜女と夫婦の約あり、後ここに祭ると)、されば秀郷の子孫、勢多橋を過ぐるには、下馬して笠を脱ぎ、鈎匙、小刀、鞭、扇等、何にても水中へ投げ入れ、礼拝して通るに必ず雨ふるなり云々、また曰く、下野国佐野の家にも秀郷より伝えし鎧あり、札に平石権現と彫り付け牡蠣の殻も付きたり、かの家にては「おひらいし」の鎧とて答拝せらるとなり、またかの鎧竜宮より持ちて上りし男、竜二郎、竜八とて二人あり、これも佐野家に仕えけるが、竜二郎は断絶す、竜八は今において佐野の秋山という処にこれあり、彼らが子孫は必ず身に鱗ありとなり、避来矢の鎧と書き、平石にてはなしと、以上『氏郷記』の文だ。
『近江輿地誌略』に、ある説に鐺は、蒲生忠知の室は内藤帯刀女なり、故に蒲生家断絶後内藤家に伝う、太刀は佐野の余流赤堀家に伝う(蒲生佐野ともに秀郷の後胤だ)。この宝物を負い出でたる童を、如意と名づく、その子孫を竜次郎とて、佐野の家にあり、後宮崎氏と称すると出づ、何に致せ蒲生氏強盛の大名となりてより、勢多の秀郷社も盛んに崇拝され、種々の宝物も新造されて、秀郷当身の物と唱えられたらしい。
『誌略』に雲住寺縁起に載った、秀郷の鏃を見んと、洛西妙心寺に往って見ると、鏃甚だ大にしてまた長く、常人の射るべき物ならず、打根のごとし、打根は射る物でなく手に掛けて人に打ち付くる物なり、尚宗とある銘の彫刻および中真の体、秀郷時代より甚だ新しいようだから、臣寺僧に問うに、この鏃は中世蒲生家よりの贈品で、秀郷の鏃という伝説もなし、ただ参詣人、推して秀郷の鏃と称えるのですと対えたとある。
『明良洪範』二四には、天正十七年四月、秀吉初め男子(名は棄君)を生む、氏郷累代の重器たる、秀郷蜈蚣射たる矢の根一本献る、この子三歳で早世したので、葬処妙心寺へかの鏃を納めたとあるから見ると、氏郷重代の宝だったらしい。
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「田原藤太竜宮入りの話」は『十二支考〈上〉』 (岩波文庫)に所収