田原藤太竜宮入りの話(その4)

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     されば弁慶力試しや、男装した赤染衛門の手印などは、耶蘇坊主の猥雑わいざつ極まる詐欺に比べて遥かに罪が軽い、それから『川角太閤記かわすみたいこうき』四に、文禄元辰二月時分より三井寺の鐘鳴りやみ、妙なる義と天下に取り沙汰の事と見ゆ、これも何か坊主どもの騙術まやかしだろうが、一体この寺の鐘性弱いのか、またさなくとも、度々たびたびの兵火でしばしば※裂ひびわれ[#「比+皮」、128-12]たのを、その都度よい加減に繕うたが、ついに鳴りやんだので、その※[#「比+皮」、128-13]裂や欠瑕を幸い、種々伝説を造って凡衆をたぶらかしたのだろう、かようの次第で三井の鐘が大当りと来たので、これになろうて他にも類似の伝説附の鐘が出て来たは、あたかも江戸にも播州ばんしゅうにも和歌山にも皿屋敷があったり、真言宗が拡まった国には必ず弘法大師三鈷さんこの松類似の話があったり(高野のほかに、『会津風土記』に載った、磐梯山恵日寺の弘法の三鈷松、『江海風帆草』に見ゆる筑前立花山伝教の独鈷とっこ松、チベットにもラッサの北十里、〈色拉寺中一降魔杵ごうましょを置く、番民呼んで多爾済ドルジす、大西天より飛来し、その寺堪布カンボこれをづ、番人必ず歳に一朝観す〉と『衛蔵図識』にづ)、殊に笑うべきは、天主教のアキレスとネレウス二尊者の頭顱されこうべ各五箇ずつ保存恭拝され、欧州諸寺に聖母マドンナ乳汁ちち、まるで聖母は乳牛だったかと思わるるほど行き渡って奉祀され居るがごとし。

     すなわち『近江輿地誌略』六一、蒲生がもう郡川守村鐘が嶽の竜王寺の縁起を引きたるに、宝亀ほうき八年の頃、この村に小野時兼なる美男あり、ある日一人の美女たちまち来り、夫婦たる事三年ののち女いわく、われは平木の沢の主なり、前世の宿因に依ってこのかたらいをせり、これを形見にせよとて、玉の箱を残して去った、時兼恋情に堪えず、平木の沢に行って歎くと、かの女たけ十丈ばかりの大蛇と現わる、時兼驚き還ってかの箱を開き見るに鐘あり、すなわち当寺に寄進す、かの沢より竜燈今に上るなり、霊験新たなるに依って、一条院勅額を竜寿鐘殿と下し賜わり、雪野寺を竜王寺と改めしむ、承暦しょうりゃく二年十月下旬、山徒これを叡山えいざんへ持ち行き撞けども鳴らねば、怒りて谷へ抛げ落す、鐘破れきずつけり、ある人当寺へ送るに、瑕自然愈合、その痕今にあり、年ひでりすれば土民雨をこの鐘に祈るに必ず験あり、文明六年九月濃州の石丸丹波守、この鐘を奪いに来たがにわかに雷電して取り得ず、鐘を釣った目釘を抜きけれど人知れず、二年余釣ってあったとあるは、回祖マホメットの鉄棺が中空に懸るてふ〔という〕欧州の俗談(ギボン『羅馬帝国衰亡史デクライン・エンド・フォール・オブ・ゼ・ローマンエンパイヤー』五十章註)に似たり。

     竜燈の事は、昨年九、十、十一月の『郷土研究』に詳論し置いた。高木君の『日本伝説集』一六八頁には、くだんの女が竜と現じ、夫婦の縁尽きたれば、記念かたみと思召せとて、堅く結んだ箱を男に渡し、百日内に開くべからずと教えて黒雲に乗って去った。男百日たず、九十九日めに開き見るに、紫雲立ち上って雲中より鐘が現われたとあるは、どうも浦島と深草少将を取りぜたようなつたない作だ。

    また平木の沢には鐘二つ沈みいたが、一つだけ上がった方は水鏡のように澄み、一つ今も沈みいる方は白く濁る、上がった方の鐘は女人を嫌いまた竜頭を現わさず、常に白綿を包み置く、三百年前一向宗の僧兵が陣鐘にして、敗北の節谷に落し破ったが、毎晩白衣の女現われ、その破目われめを舐めたとあるから、定めて舐めてなおしたのだろ、これらでこの竜王寺のはなしは、全く後世三井寺の鐘の盛名を羨んで捏造された物と判りもすれば、手箱から鐘が出て水に沈むとか、女を忌む鐘の瑕を女が舐めて愈したなど、すこぶる辻褄合わぬ拙作と知れる。

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    「田原藤太竜宮入りの話」は『十二支考〈上〉』 (岩波文庫)に所収

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