鼠に関する民俗と信念(その8)

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     大黒天の事は石橋臥波君の『宝船と七福神』てふ小冊に詳述されたから、今なるべく鼠に関する事どもとかの小冊に見えぬ事どもを述べよう。皆人の知るごとくこの神が始めて著われたのは、唐の義浄法師の『南海寄帰内法伝』に由る。義浄は今(大正十三年)より千二百五十三年前、咸享二年三十七歳でインドに往き在留二十五年で帰った時、奉仏兼大婬で高名な則天武后みずから上東門外に迎えたほどの傑僧で、『寄帰内法伝』は法師がかの地で目撃した所を記した、法螺ほら抜きの真実譚だ。

    石橋君の著にはその大黒様の所を抄出したままで誤字も多少あれば、今は本書から引こう。いわく、また西方諸大寺皆食厨の柱側あるいは大庫の門前に木を彫りて二、三尺の形を表わし神王となす。その状坐して金嚢をり、かえって小牀しょうしょうきょし、一脚地にる。つねに油を以てぬぐい、黒色形をし、莫訶歌羅(マハーカーラ、大神王の義)という。すなわち大黒神なり。古代相承していわく、これ大天(ヒンズー教のシワ大神)の部属で、性三宝を愛し、五衆を護持し、損耗なからしむ。求むる者情にかなう。ただ食時に至り厨家ごとに香火をすすむれば、あらゆる飲食おんじき随って前に列すと。

    すなわち大黒神は今もインドで大陽相を以て表わして盛んに崇拝するシワの眷属ながら、仏法を敬し、僧衆を護り、祈れば好いたものを授ける、台所で香火を供えて願えば、たちまち飲食を下さるというのだ。さてこの辺から義浄はただ聞いたままを記すという断わり書きがあって、かつて釈尊大涅槃だいねはん処へ建てた大寺はいつも百余人の僧を食わせいたところ、不意に五百人押し掛けたので大いに困った。ところが寺男の老母がこんな事はいつもある、心配するなというたまま多く香火を燃し、盛んに祭食を陳列して大黒神に向い、仏涅槃の霊蹟を拝みに多勢の僧がやって参った、何卒なにとぞ十分に飲食させて不足のないようにと祈り、さて一同を坐せしめ、寺の常食を与うると食物が殖えて皆々食い足ったので、そろうて大黒天神の力を称讃したとある。

    すこぶる怪しい話だが、今の坊主連と異なり、その頃の出家はいずれも信心厚く、行儀も良かったから、事に慣れた老婆の言を信じ切って、百人前の食物が五倍六倍に殖えた事と思い定めて、食って不足を感じなかったものだろう。寺の住職の妻を大黒というも専ら台所をつかさどって大黒神同様僧どもに腹を減らさせないからで、頃日けいじつ『大毎』紙へ出た大正老人の「史家の茶話」に『梅花無尽蔵』三上を引いて、足利義尚将軍の時、既に僧の妻を大黒と呼んだと証した。いわく、長享二年十一月二十八日、宿房の大黒を招き、晨盤をすすむ。そのてい蛮のごとし、戯れに詩を作りていわく、〈宿房の大黒晨炊を侑む、まさ若耶渓じゃくやけいの女の眉を掃くべきに、好在こうざい忘心一点もなし、服はただ※(「糸+曾」、第3水準1-90-21)そうふにして語は蛮夷なり〉。意味はよく判らないがその頃はや夷子えびす大黒だいこくを対称しただけは判る。高田与清ともきよは『松屋筆記まつのやひっき』七五に大黒の槌袋に関し『無尽蔵』巻四を引きながら、巻三の僧の妻を大黒という事は気付かなんだものか。

     永禄二年公家藤原某作てふ『塵塚ちりづか物語』巻三に卜部兼倶うらべかねとも説として、大黒というはもと大国主おおくにぬしみことなり、大己貴おおなむちと連族にて昔天下を経営したもう神なり。大己貴と同じく天下をめぐりたもう時、かの大国主袋のようなる物を身に随えてその中へ旅産を入れて廻国せらるるに、その入れ物の中の糧を用い尽しぬればまた自然に満てり。それにって後世に福神といいて尊むはこのいわれなりと云々。しかしてそののち弘法大師かの大国の文字を改めて大黒と書きたまいけるとなりと記す。

    大黒天は大国主命を仏化したという説は足利氏の代に既にあったので、『古事記』に大国主の兄弟八十神各稲羽いなば八上やかみ姫を婚せんと出で立つに、大国主に袋を負わせて従者として往った話あり。本居宣長その賤役たるを言い、事功の人におくるる者を今も袋持ちというと述べた。海外にもマオリ人は背に食物を負うを賤民とす(一八七二年パリ板、ワイツとゲルランドの『未開民人類学』六巻三四五頁)。大国主も糧袋を負うたと見え、大黒神も飲食不尽の金嚢を持った所が似ているから、大国主の袋をも不尽の袋と見て二神を合一したのだ。

     次は槌だ。『譚海』一二に、日光山には走り大黒というあり、信受の者懈怠けたいの心あらば走りせてその家に座さず、殊に霊験ある事多し、これは往古中禅寺に大なる鼠出て諸経を食い敗り害をなせし事ありしに、その鼠を追いたりしかば下野しもつけ足緒あしおまで逃げたり。鼠の足に緒を付けて捕えて死にたるよりそこを足緒というとぞ、足緒は足尾なり。さて死にたる鼠の骸に墨を塗りて押す時はそのまま大黒天の像になりたり。それより日光山にこの鼠の死にたる骸を重宝して納め置き、今に走り大黒とて押し出す御影なりと記す。

    一昨年某大臣、孟子がいわゆる大王色を好んで百姓とともにせんとの仁心より頼まれた惚れ薬の原料を採りに中禅寺湖へ往った時、とくとこの大黒を拝もうと心掛けて滞在して米屋旅館に、岩田梅とて芳紀二十三歳の丸ぼちゃクルクル猫目ねこめの仲居頭あり。嬋娟せんけんたる花のかんばせ、耳の穴をくじりて一笑すれば天井から鼠が落ち、びんのほつれを掻き立ててまくらのとがをうらめば二階から人が落ちる。

    南方先生その何やらのふちからあふるるばかりの大愛敬あいきょうに鼠色のよだれを垂らして、生処を尋ねると、足尾の的尾の料理屋の娘というから十分素養もあるだろう、どうか一緒に走り大黒、身は桑門そうもんとなるまでも生身なまみの大黒天と崇め奉らんと企つる内、唐穴からっけつになって下山しとうとう走り大黒を拝まなんだ。全く惚れ薬取りが惚れ薬に中毒したのだ。その節集古会員上松蓊君も同行したから彼女の尤物ゆうぶつたる事は同君が保証する、あの辺へ往ったら尋ねやってくれたまえ。

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    「鼠に関する民俗と信念」は『十二支考〈下〉』 (岩波文庫)に所収

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