(その15)
かく鼠が神の使となって人を苦しむるよりこれを静めんとて禁厭を行うたり、甚だしきは神と斎き祈った例もある。クルックの『北印度の俗教』一巻七三頁に、アーマドナガールで四、五月の交二村の童子石を打って闘う。この行事を廃すれば雨ふらず、もし雨ふれば鼠大いに生じて田を荒すと。わが邦に昔行われた印地打ちだ。
『日吉社神道秘密記』に鼠の祠は子の神なり、御神体鼠の面、俗形烏帽子狩衣、伝説に昔皇子誕生あるべきよう三井寺の頼豪阿闍梨に勅定あり、百社祈って御誕生あり、頼豪に何でも望みをかなえやろうと仰せられ、すなわち請うて三井寺に戒壇を立つ、叡山から極力これを阻んで事ついにやんだので、豪、面目を失い、死して四歳の皇子を取り殺し、自ら三千の鼠となって叡山を襲い、経典を食い破ったので、神に斎き祀ってこれを鎮めたのだと。
『さへづり草』むしの夢の巻にいわく、寛文二年印本『江戸名所記』に根津権現社は大黒神を祭るなり、根津とは鼠の謂れにて、鼠は大黒神の使者なれば絵馬などにも多く鼠を画きたりとあって、不寝権現と書せり、また貞享四年印本『江戸鹿子』に不寝権現、千駄木村、ねずとは大黒天神を勧請しけるにや、ねずとは鼠の社の心にやとあり云々。
按ずるに古くは子の権現といえりしを、子はすなわち鼠なるにより下略して子ず権現と称えしより、寛文の頃に至っては不寝と書きしより、なお元禄の末までも不寝権現とは書き来りしならん云々、さるを宝永三年根津左衛門が霊を合せ祭りて、根津の文字に改められしものなるべしと。
またいわく都城必ず四神を祀り以て四方を鎮す、子はすなわち北方玄武神、世俗これを子聖あるいは鼠のほこらというと、これは拠って按ずるに、太田道灌江戸造立の時祀りし社なる事疑いなし、その方角すなわち北に当れり云々。またいわく伊豆国下田の近郷、中の瀬村の鎮守を子の聖権現といえり、この神、餅を忌み嫌いたもうとて、中の瀬一郷、年の終りに餅を搗かず、焼飯に青菜を交えて羮となし、三ヶ日の雑煮に易えるとぞ、これも珍しと。
これについて何か一勘弁付きそうな物と藤沢君の『伝説』伊豆の巻を穴ぐり調べたが一向載っていない。とにかく根津社はもと大黒天に関係なく、鼠害を静むるため鼠を祝い込めた社で、子の聖権現は馬鹿に鼠を嫌う神と見える。
多い神仏の内には豪気な奴もありて、『雍州府志』に京の勝仙院住僧玄秀の時、不動尊の像の左の膝を鼠が咬んだ、秀、戯れに明王諸魔降伏の徳あって今一鼠を伏する能わずといった、さて翌朝見れば鼠が一疋像の手に持った利剣に貫かれたので感服したと出づ。似た話があるもので、モニエル・ウィリヤムスの『仏教講義』に、インドの聖人若い時神像に供えた物を遠慮なく鼠が著腹するを見て、万能といわるる神が鼠を制し得ざるに疑いを懐き、ついに一派の宗旨を立てたとあった。
羽後の七座山には勤鼠大明神の祠あり。これは昔七座の神に命ぜられて堤に穴を穿ち、湖を疏水した鼠で、猫を惧れて出なんだので七座の神が鼠を捕らねば蚤を除きやろうと約して猫を控えさせ、さて鼠族一夜の働きで成功した。因ってその辺の猫は今に蚤付かず。さてこの鼠神の祭日に出す鼠除けの守り札を貼れば鼠害なしという(『郷土研究』三巻四二八頁)。守り札で銭をせしめる代りに買った者を煩わさない、ちょうど博徒様の仕方だ。大黒に関係なしと見える。
欧州でも、ゲルトルード尊者、ウルリク尊者、またスコットランドのストラス・レヴェン洞に住し、上人いずれも鼠を退治すといい、その旧住地と墓に鼠近付かず、その土および供物のパン能く鼠を殺すと信ず(一九〇五年板、ハズリットの『諸信念および民俗』二巻五〇七頁、一八二一年板コラン・ド・プランシーの『遺宝霊像評彙』。ピンケルトンの『陸海紀行全集』三巻一五頁)。日本で正月に餅を鼠に祝う代りにこのパンを取り寄せて与えるがよかろう。
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「鼠に関する民俗と信念」は『十二支考〈下〉』 (岩波文庫)に所収