(その10)
刀鎗弓矢の盛んに用いられた世に刀鎗を神威ありとしたごとく、石器時代には斧や槌が武威を示す第一の物だった遺風で、神威を斧や槌で表わす事となり、厨神大黒天もなかなか武備も抜かっておらぬという標しに槌を持たせたのが、後には財宝を打ち出す槌とのみ心得らるるに及んだと見える。『仏像図彙』に見る通り観音二十八部衆の満善車王も槌を持ち、日本でも叡山の鼠禿倉の本地毘沙門といい(『耀天記』)、横尾明神は本地毘沙門で盗を顕わすために祝き奉るという(『醍醐寺雑事記』)などその痕跡を留むる。
石橋君は大黒天に鼠はもとクベラ神像と混じたので、その像は金嚢その他の宝で飾った頭巾を戴き玉座に踞し傍に金嚢から財宝をまく侍者あり。後には侍者の代りに鼠鼬となった。日本の大黒が嚢を負い鼠を随えるはこれに因るという人ありと言われた。クベラすなわち毘沙門で、ヒンズー教の説に梵天王の子プラスチアの子たり、父を見棄て梵天王に帰した。梵天王これを賞して不死を与え福神とした。『ラマヤナ』にしばしばクベラを金と富の神と称えあれど、後世インドで一向持囃されず、その画も像も見及ばぬ(一九一三年板ウィルキンスの『印度鬼神誌』四〇一頁。アイテルの『梵漢語彙』一九三頁)。
これに反しインド以北では大いに持囃して福神毘沙門と敬仰さる。ヒンズー教仏教ともにこの神を北方の守護神とし、支那には古く子は北方でその獣は鼠としたるに融合して、インド以北の国で始めて鼠をクベラすなわち毘沙門の使い物としたのだ。山岡俊明等このインド以北の支那学説とインド本土の経説の混淆地で作られた大乗諸経に見ゆるからとて、支那の十二支はインドから伝うなどいうも、インドに本五行の十二支のという事も、鼠を北方の獣とする事も、毘沙門の使とする事もない(『人類学雑誌』三四巻八号、拙文「四神と十二獣について」参看)。
されば石橋君が聞き及んだクベラ像はインドの物でなくて、多少支那文化が及びいた中央アジア辺の物だろう。中央アジアに多少これを証すべき伝説なきにあらず。十二年前「猫一疋から大富となった話」に書いた通り、『西域記』十二にクサタナ国(今のコーテン)王は毘沙門天の後胤という。昔匈奴この国に寇した時、王、金銀異色の大鼠を祭ると、敵兵の鞍から甲冑から弓絃まで、紐や糸をことごとく鼠群が噛み断ったので、匈奴軍詮術を知らず大敗した、王、鼠の恩を感じこれを祭り多く福利を獲、もし祭らないと災変に遭うと出づ。
日本にも『東鑑』に、俣野景久、橘遠茂の軍勢を相具し甲斐源氏を伐たんと富士北麓に宿った夜、その兵の弓絃を鼠に噛み尽くされついに敗軍したとあり。ヘロドトスの『史書』にもエジプト王がこの通り鼠の加勢で敵に勝った話を出す。『宋高僧伝』一には天宝中西蕃、大石、康の三国の兵が西涼府を囲む、玄宗、不空三蔵をして祈らしむると、毘沙門の王子、兵を率いて府を援い、敵営中に金色の鼠ありて弓絃を皆断ったので大勝利となり、それより城楼毎に天王像を置かしめたと記す。天主閣の初めという人もある。右の諸文で唐時既に鼠を毘沙門の使者としたと知れる。
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「鼠に関する民俗と信念」は『十二支考〈下〉』 (岩波文庫)に所収