鼠に関する民俗と信念(その9)

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     右の『譚海』の文に拠れば鼠が神になって大黒天と現じたようだが、『滑稽雑談』二一には、大黒天神は厨家豊穣の神なるが故に、世人鼠の来って家厨の飲食倉庫の器用を損ずるをこの神に祈る時、十月の亥の日を例としての月なる十一月のの日を(祭りに)用ゆるなるべしと記す。『梅津長者物語』には鼠三郎、野らねの藤太等の賊が長者の宅を襲うと、大黒真先に打って出で打ち出の小槌こづち賊魁ぞくかいを打ち殺す事あり。これでは大黒時に鼠や賊を制止誅戮ちゅうりくし、槌は殺伐の具となって居る。

     槌はいかにも大黒の附き物で、繁昌をこの神に祈って鼠屋また槌屋と家号したのがある。京で名高い柄糸つかいとを売る鼠屋に紛らわして栗鼠りす屋と名乗る店が出た事あり(宝永六年板『子孫大黒柱』四)。伊勢の御笥作り内人うちんど土屋氏は昔槌屋と称え、豪富なりしをにくみ数十人囲みやぶりに掛かりかえって敗北した時、荒木田守武あらきだもりたけの狂歌に「宇治武者は千人ありとも炮烙ほうろくの槌一つにはかなはざりけり」、蛆虫うじむしを宇治武者にいいしたのだ(石崎文雅『郷談』)。

    それから娼家には殊に槌屋の家号多く、例せば宝永七年板『御入部伽羅女ごにゅうぶきゃらおんな』四に、大阪新町太夫の品評が、槌屋理兵衛方に及んで「したるい目付き掃部さま、これが槌屋の大黒なり」と、この娼を家の大黒柱に比べおる。四壁庵の『忘れ残り』上巻に、吉原江戸町三丁目佐野槌屋のかかえ遊女まゆずみ、美貌無双孝心篤く、父母の年忌に廓中そのほか出入りの者まで行平鍋ゆきひらなべを一つずつ施したり、「わがかづく多くの鍋を施して、万治この方にる者ぞなき」とほめある。これらよりもずっと著われたは安永二年菅専助すがせんすけ作『傾城恋飛脚けいせいこいのたより』で全国に知れ渡り、「忠兵衛ちゅうべえ上方者かみがたもので二分残し」とよまれた亀屋の亭主をしくじらせた北の新地槌屋の抱え梅川うめがわじゃ。

     槌は只今藁を打ったり土を砕いたり専ら農工の具で、大高源吾が吉良きら邸の門を破ったり、弁慶が七つ道具に備えたりくらいは芝居で見及ぶが、専用の武器とは見えず。

     だが昔大分地方の鼠の岩屋等の強賊、皇命に従わざりしを景行天皇ツバキの槌を猛卒に持たせ誅殺した事あり(『書紀』七)、この木は今も犬殺しも用い身に極めて痛く当る。『史記』には槌を以て朱亥しゅがいが晋鄙を殺し、劉長が審食其しんいきを殺した事あり。北欧の雷神トール百戦百勝するに三の兵宝あり。まず山を撃たば火が出る大槌、名はムジョルニルで、トールこれを以て山と霜の大鬼を殺し、また無数の鬼属を誅した。次は身に巻けば神勇二倍する帯で、第三には大槌を執る時の手袋だ(マレーの『北欧考古編』ボーンス文庫本四一七頁)。

    わが邦でも時代の変遷に伴うて兵器に興廃あり。砲術盛んならぬ世には槍を貴び、何人槍付けたら鼈甲べっこう柄の槍を許すとか、本多平八の蜻蜒とんぼ切りなど名器も多く出で、『昭代記』に加藤忠広封を奪われた時、清正伝来の槍を堂の礎にあて折って武威のきたるを示したとある。槍より先は刀剣で剣の巻など名刀の威徳を述べて、これさえあれば天下治まるように言いおり、また弓矢を武威の表徴のごとく言った。

    支那でも兵器の神威を説いたもので、越王泰阿の剣をふるえば敵の三軍破れて流血千里といい、湛盧の剣は呉王の無道を悪んで去って楚に往ったといい、漢高祖が白蛇を斬った剣は晋の時自ら庫の屋を穿って火災をのがれ飛び去った由(『淵鑑類函』二二三)。漢より晋までこの剣を皇帝の象徴と尊んだらしい。カンボジアでも伝来の金剣を盗まば王となり、これなくば太子も王たるを得ず(『真臘しんろう風土記』)。支那で将軍出征に斧鉞ふえつを賜うとあるは三代の時これを以て人を斬ったからで、『詩経』に武王鉞(マサカリ)を執ればその軍に抗する者なかったとある。

    上古の人が遺した石製の斧や槌は雷斧、雷槌など欧亜通称して、神が用いた武器と心得、神の表徴とした。博物館でしばしば見る通り、中には斧とも槌とも判らぬあいの子的の物も多い。王充の『論衡』に、漢代に雷神を画くに槌で連鼓を撃つものとしたとあれば、その頃既に雷槌という名はあったのだ。古ギリシアローマともにかかる石器を神物とし、今日西アフリカにおけるごとく、石斧に誓うた言をローマ人は決してたがえず。契約にそむいた者あれば祝官石斧を牲豕に投げ付けて、弁財天また槌を持つらしい。

    大方等大集経だいほうどうだいじっきょう』二二には、過去九十一劫毘婆尸仏びばしぶつの時、曠野菩薩誓願して鬼神を受けて悪鬼を治す。金剛槌の呪の力を以て一切悪鬼をして四姓に悪をす能わざらしむ。『一切如来大秘密王微妙大曼拏羅経みみょうだいまんだらきょう』一には、一切悪および驚怖障難を除くに普光印と槌印を用ゆべしとある。槌を勇猛の象徴としたほど見るべし。仏教外にはエトルリアの地獄王キャルンは槌を持つ。本邦にも善相公ぜんしょうこうと同臥した侍童の頭を疫鬼に槌で打たれ病み出し、染殿后そめどののきさきを犯した鬼が赤褌に槌をさしいたといい、支那の区純おうじゅんちゅう人は槌で鼠を打ったという(一八六九年板、トザーの『土耳其トルコ高地探究記』二巻三三〇頁。『政事要略』七〇。『今昔物語』二〇の七。『捜神後記』下)。

    いずれも槌がもと凶器たり、今も凶器たり得るを証する。(大正十五年九月八日記。蒙昧もうまいの民がいかに斧を重宝な物とし、これを羨んだかは、一八七六年板ギルの『南太平洋の神誌および歌謡』二七三頁註をみて知るべし。)ジュピテル大神、この通り違約者を雷で打てと唱えた。北欧では誓約に雷神トールの大槌ムジョルニルの名をいてした。それが今日競売の約束固めに槌でつくえを打つ訳である(一九一一年板ブリンケンベルグの『雷の兵器』六一頁)。

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    「鼠に関する民俗と信念」は『十二支考〈下〉』 (岩波文庫)に所収

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