(その11)
今日インドでは鼠をガネサの乗り物とす。大黒はシワ大神の部属というが、ガネサはシワの長男だ。シワの妻烏摩后、子なきを憂え、千人の梵士を供養してヴィシュヌに祈り、美妙の男子を生み諸神来賀した。中に土星ありて土ばかり眺めて更にその子を見ず。烏摩后その故を問うと、某ヴィシュヌを念ずるに一心にして妻がいかにかの一儀を勤むるも顧みず「川霧に宇治の橋姫朝な/\浮きてや空に物思ふ頃」ほかにいいのがあるんだろうと、九月一日の東京然と大焼けに焼けた妻が拙者を詛うて、別嬪でも醜婦でも、一切の物、わが夫に見られたらたちまち破れおわれと詛うた。因って新産の御子に見参せぬと、聞きもおわらず、烏摩后、子自慢の余りそんな事があるものか、新産を祝いに来てその子を見ないは一儀に懸りながらキッスをしないようなものと怨むから、土星しからば御後悔ないようにと念を押してちょっと眺むると新産のガネサの頸たちまち切れて飛び失せた。
わが邦にも男の持戒をいやに疑うて災を招いた例が『野史』一二六に見ゆ。永禄十二年十月武田信玄三増山の備えを小田原勢が撃って大敗した時、北条美濃守氏輝、既に危うきに臨み心中に飯綱権現を頼み、只今助けくれたら十年間婦女を遠ざけますと誓うた。そこへ師岡某来り馬を譲り、禦ぎ戦う間に氏輝は免れた。帰宅後妻君がいかに思いの色を見せても構い付けずこの夫人は幾歳だったか書いていないが、その時氏輝の同母兄氏政が三十三だから氏輝は三十歳ばかり、したがって夫人も二十七、八、縮れ髪たっぷりの年増盛りだったでしょう。
〈婦女の身三種大過、何ら三と為す、いわゆる婦女の戸門寛大なる、両乳汁流るる、これ三種と名づく〉(『正法念処経』四五)、されば「都伝摸年増東夷辺伐広夷様」その広夷野に飽き果て散播都天門呉弩と嘆ちて自害した。氏輝は遺書を見て不便がり、一生女と交わらなんだとあるが、後年秀吉の命で自裁した時、愛童山角定吉十六歳、今打ち落した氏輝の首を懐いて走った志を家康感じて罰せず、麾下に列したとある(『野史』一二六)は自分の家から火を出しながら大睾丸の老爺を負って逃げたので褒美されたような咄し。けだし氏輝は女は遠ざけたが、「若衆遠春留波構はぬ庚さる」小姓を愛し通したのだ。
さて烏摩后首なき子の骸を抱いて泣き出し、諸神倣うてまた泣く時、ヴィシュヌ大神金翅鳥に乗りてブシュパブハドラ河へ飛びゆき、睡り象の頭を切り、持ち来り、ガネサの頭に継いでよりこの神今に象頭だ。これ本邦慾張り連が子孫七代いかに落ちぶれても頓着せず、わが一代儲けさせたまえと祈って油餅を配り廻り、これを食った奴の身代皆自分方へ飛んでくるように願う歓喜天また聖天これなり。
今もインド人この神を奉ずる事盛んで、学問や事始めや障碍よけの神とし、婚式にも祀る。障碍神毘那怛迦も象鼻あり。象よく道を塞ぎまた道を開く故、障碍除障碍神ともに象に形どったのだ。日本でも聖天に縁祖また夫婦和合を祈り、二股大根を供う(一八九六年板クルックの『北印度俗教および民俗』一巻一一一頁。アイテル『梵漢語彙』二〇二頁。『増補江戸咄』五)。その名を商家の帳簿に題し、家を立つる時祀り、油を像にかけ、餅や大根を供うるなどよく大黒祭に似る。また乳脂でげた餅を奉るは本邦の聖天供の油げ餅に酷似す。その像象首一牙で、四手に瓢と餅と斧と数珠をもち、大腹黄衣で鼠にのる(ジャクソンの『グジャラット民俗記』一九一四年ボンベイ板、七一頁)。
仏典にも宋の法賢訳『頻那夜迦天成就儀軌経』にこの神の像を種々に造り、種々の法で祭り、種々の願を掛くる次第を説きある。聚落人をみな戦わせ、人の酒を腐らせ、美しい童女をして別人に嫁ぐを好まざらしめ、夢中に童女と通じ、市中の人をことごとく裸で躍らせ、女をして裸で水を負うて躍らせ、貨財を求め、後家に惚れられ、商店をはやらなくし、夫婦を睦じくし、自分の身を人に見せず、一切人民を狂わせ、敵軍を全滅せしめ、童女を己れ一人に倶移等来させ、帝釈天に打ち勝ち、人を馬鹿にしてその妻女男女を取り、人家を焼き、大水を起し、その他種々雑多の悪事濫行を歓喜天のおかげで成就する方を述べある。ダガ余り大きな声で数え立てると叱られるからやめる。
斧と槌がもと同器だった事は上に述べた。晋の区純は鼠が門を出かかると木偶が槌で打ち殺す機関を作った(『類函』四三二)。北欧のトール神の槌は専ら抛って鬼を殺した。そのごとく大黒の槌はガネサの斧の変作で、厨を荒らす鼠を平らぐるが本意とみえる。また現今ヴィシュヌ宗徒の追善用の厨器にガネサを画くなどより、大黒が全然ガネサの変形でないまでもその形相は多くガネサより因襲したと惟わる。唐の不空が詔を奉じて訳した『金剛恐怖集会方広軌儀観自在菩薩三世最勝心明王経』という法成寺からツリを取るほど長い題目の仏典に、摩訶迦羅天は大黒天なり、象皮を披き横に一槍を把る云々。
石橋君がその著八六頁に『一切経音義』より文、『諸尊図像鈔』より図を出したのをみるに、日本化しない大黒天の本像は八臂で、前の二手に一剣を横たえた状が、現今インドのガネサが一牙を口吻に横たえたるに似、後ろの二手で肩上に一枚の白象皮を張り、而して画にはないが文には足下に一の地神女あり、双手でその足を受くとある。象皮を張ったは大黒もと象頭のガネサより転成せしを示す。ボンベイの俗伝にガネサその乗る所の鼠の背より落ち、月これを笑うて罰せられたという事あり(クルック、一巻一三頁)。大黒像もガネサより因襲して鼠に乗りもしくは踏みおったが、梵徒は鼠を忌む故(一九一五年ボンベイ板、ジャクソンの『コンカン民俗記』八四頁)、追い追い鼠を廃し女神を代用したと見える。
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「鼠に関する民俗と信念」は『十二支考〈下〉』 (岩波文庫)に所収