(その7)
予かつて故土宜法竜師の依頼でこのイエジジ宗の事を種々調べたが十分判らなんだ。一通り聞いたところを考察すると、その宗旨はざっと、上帝は至聖至善だから別段拝まないでも悪くは感ずまい、恐るべきは魔王で、こやつに立腹されると何を仕出かすか知れやしないから、十分慇懃に拝むがよいという心懸けらしく、かつ上に述べたごとく、こんな極悪の者でも何か往く往く間に合う見込みがあればこそ世にあるのだという想像で、これを拝むと時々吉い事にも遇うので、魔王宗に凝り固まったと見える。
パーシー宗徒は猫も鼠も魔物としながら猫ほどに鼠を忌まず(一六七六年パリ板タヴェルニエーの『波斯紀行』四四二頁)。猫を特に嫌うよりの反動だ。それから上述露国の旧信者が油虫も天より福を持ち下ると言い、『日次紀事』に初寅の日鞍馬寺で福授けの蜈蚣を売ったとあるなど、魔王でも悪虫でも拝めば無害で役に立ちくれると信じての事で、世に近隣の小言を顧みず、ペスト流行にもかかわらず、鼠を多く活かし供養して大黒天に幸いを求むる者の心また同じ。
故陸奥伯の父伊達自得翁この田辺に久しく囚われたうち筆した『余身帰り』に「鼠の夜ごとに出でくるを、これならで訪う物もなき宿なりと思うも哀れにて、果子など投げやるにようよう
馴れ顔にて経など読み居る机の前につい居るもおかし。ともすれば油を吸い燈をけすほどに、人々悪みて打ち殺してんなどいわば、これに向いてわれは許すとも人は赦さず、今はな来そ、よくあらじといい聞かすを心得たりけん、その後はいつしかこずなりぬ。かくてほどへてある夜枕辺の畳を咬み鳴らす音す。驚きて見れば鼠なり。ししと追わば逃げ入りぬ。
再び眠るほどにまた来りて咬み鳴らす事糸騒がし。枕を擡ぐればまた逃げ入る。何を求むるにか、食物のある所にもあらず。枕近く来りて眠りを驚かすはいかなる心ならんと思うほどに、『五雑俎』に、占書に狼恭し鼠拱すれば主の大吉といえりという条に、近時の一名公早朝靴を穿たんとするに、すでに一足を陥れて鼠あり、人のごとく立ちて拱す、再三叱れども退かず、公怒り一靴を取りてこれに投ぐるに、中に巨尺余なるありて墜ちたり、鼠すなわち見えず、憎むべきの物を以てまた能く人のために患を防ぐは怪しむべしとあるを思い出で、もしさる事もやと衾をげ見れば糸大いなる蜈蚣の傴まりいたりければすなわち取りて捨てつ。糸可笑しくもくるやと思いいるにさて後は音なくなりぬ。偶然の事なめれども、もしまた前の報いしたるならば下劣の鼠すらなお恩は知るものと哀れなり」。
ジスレリの『文海奇観』に、禁獄された人が絃を鼓する事数日にして鼠と蜘蛛が夥しく出で来り、その人を囲んで聴きおりさて弾じやむと各退いた。さて毎度弾ずるごとに大入り故、獄吏に請いて猫を隠し置き、音楽で鼠を集めて夢中になって感心しいる処を掩殺させたとある。
鼠や蜘蛛がそれほど音楽を好むかは知らぬが、列子やダーウィンが言い、米国のトローが実試した通り、もと諸動物は害心なき人を懼れず、追い追い慣れて近づき遊ぶ。その内に物が心なくしてする事も、目が動けば酒食を得るとて呪し、燈に丁字頭が立つと銭を儲けるとて拝し、鵲が噪げば行人至るとて餌をやり、蜘蛛が集まれば百事嘉ぶとてこれを放つ、瑞は宝なり、信なり。天宝を以て信となし、人の徳に応ず。故に瑞応という。天命なければ宝信なし、力を以て取るべからざるなりと、陸賈が樊に語った通り(『西京雑記』三)、己れの力を量らずひたすら僥倖を冀うが人情だ。
漢の魏豹、唐の李、いずれもその妻妾は天子に幸せられて天子を生み皇太后となった(『※[#「こざとへん+亥」、361-5]余叢考』四一)。文化十一年春、大阪北の新地の茶屋振舞へ、さる蔵屋敷の留守居が往った。その従僕茶屋の台所にいると、有名な妓女が来て二階へ上らんとして笄を落した。従僕拾うて渡すと芸子憚り様と言いざまその僕の手とともに握って戴き取った。田舎育ちの者かかる美女に手を握られた嬉しさ心魂に徹し、屋敷へ帰っても片時も忘れず。女郎と違い小金で芸子を受け出し得ず、人の花と詠めさせんよりはと無分別を起し、曾根崎の途中でその女を一刀に斬り殺し麦飯屋の簀の子下に隠れたが、翌夕腹へって這い出で食を乞う所を召し捕られた(『伝奇作書』初篇上)。
行き合いバッタリ、何処の誰とも知らぬ者が笄を拾いくれた嬉しさに手を握ったのを、心あっての事と己惚れて大事を仕出かしたは、馬鹿気の骨頂たるようだが、妻妾が貴相ありと聞いて謀反したり、鼠が恩を報いるの、鼠を供養すれば大黒様が礼を授くるのと信ずるのも皆同様の己惚れで、力を以て取るべからざる物を取ろうとする愚かな事じゃ。
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「鼠に関する民俗と信念」は『十二支考〈下〉』 (岩波文庫)に所収