南方熊楠のエピソード
熊楠のエピソードいろいろ。
熊楠が幼少の頃、父は金物屋を営み、鍋や釜を包むのに反古紙を利用した。熊楠は7歳の頃、反古として売りに来た10冊本の『訓蒙図彙』を手に入れ、3年がかりで読んで漢字を覚えた。
幼少の頃、父が金物屋を営んでいたので、紀州藩旧藩士族の子弟から「鍋屋の熊公」と呼ばれ卑しめられたらしい。
8〜9歳の頃から『和漢三才図会』105巻を3年かかって筆写。12歳までに『本草綱目』『諸国名所図会』『大和本草』等も筆写。→履歴書(現代語訳3)
和歌山中学校(現・和歌山県立桐蔭高校)では鳥山啓に博物学を学ぶ。
東京神田の共立学校(現・開成高校)に入学。高橋是清に英語を学ぶ。
大学予備門(現・東京大学)に入学。同窓生に夏目漱石、正岡子規、秋山真之、寺石正路、芳賀矢一、山田美妙、本多光太郎など。
渡米にあたっては、友人の羽山繁太郎に手渡した写真の裏に「僕も是から勉強をつんで、洋行すました其後は、ふるあめりかを跡に見て、晴るる日の本立帰り、一大事業をなした後、天下の男といわれたい」と決意の言葉を書き残す。
キューバで地衣の新種を発見。のちにギアレクタ・クバナと命名される。これは東洋人が白人領地内において最初の植物発見である。→履歴書(現代語訳4)
キューバ採集旅行中に資金が尽き、ハイチ、ベネズエラ、ジャマイカなどを2か月あまりサーカス団の一員となって生活した。
ロンドンで亡命中の孫文と出会い、意気投合。「願わくはわれわれ東洋人は一度西洋人を挙げてことごとく国境外へ放逐したきことなり」と述べた。→履歴書(現代語訳8)
大英博物館でイギリス人を撲打。館内の出入りを禁じられるも、2ヶ月ほどで許される。→履歴書(現代語訳10)
幽霊に教えられて度々、珍しい植物を発見している。→履歴書(現代語訳19)
熊楠が旅行に出て帰宅する夜は、別に電信など出さないのに妻はその用意をする。→履歴書(現代語訳19)
英国の科学雑誌『ネイチャー』に掲載された熊楠の論文は50篇で日本人最多。
多汗症のため、薄着または裸で過ごすことが多かった。
護身用に、十手を常に持ち歩いていた。寝るときも枕元に置いた。
高い本を買うときは、ご飯のおかずをしばらくみそ汁だけにした。
熊楠は猫好き。飼っていた猫の名前はすべて「ちょぼ六」。
熊楠は亀も好き。多いときには約60匹もの亀を飼っていた。イシガメやクサガメ。
熊楠が飼っていたクサガメの「お花」は、熊楠が亡くなってから60年も生き、2001年7月に老衰で死亡。100年以上生きたといわれる。
自在にヘドを吐くことができ、ヘドを喧嘩の武器とした。
生涯定職に就かず、無位無冠。収入はろくになかった。
蟻に陰茎を噛まれて全身が腫れる。その蟻は何の種なのかを明らかにするため、彼処へ砂糖または鶏の煮汁を塗り、庭にうずくまって蟻が来るのを待ったが、ついに蟻は現われなかった。→オニゲナ菌(現代語訳)
監獄で新種の粘菌を発見した。
自宅の柿の木から発見した新属新種の粘菌を発見。のちに「ミナカテラ・ロンギフィラ(Minakatella longifila)」と命名された。
熊楠は英語の論文や日本語の手紙など膨大な文章を残したが、熊楠個人で生前に刊行した本は『南方閑話』『南方随筆』 『続南方随筆』 の3冊のみ。息子の熊弥の病気治療と生活のため。
昭和天皇へ粘菌学などを進講したとき、粘菌標本110点をキャラメル箱11個に収めて進献した。
昭和天皇のことについては「普通の家に生まれていらしたら、大変な学者になられたやろうに」 と気の毒がっていた。
亡くなる前日、床に就く際に「天井に紫の花が一面に咲いている。医者が来ると花が消えるから医者を呼ばないでほしい」と言い残した。
熊楠の脳は大阪大学医学部にホルマリン漬けとして保存されている。MRIで調べたところ右側頭葉奥の海馬に萎縮があった。これが熊楠の特異な脳力の元であったか。
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