南方熊楠語録
どこにてもあるものゆえ、どこの森を伐ろうとかまわぬじゃないかと言われんが、実際は然らず。
故に、人が見て原形体といい、無形のつまらぬ痰(たん)様の半流動体と蔑視されるその原形体が活物で、後日蕃殖の胞子を護るだけの粘菌は実は死物なり。死物を見て粘菌が生えたと言って活物と見、活物を見て何の分職もなきゆえ、原形体は死物同然と思う人間の見識がまるで間違いおる。すなわち人が鏡下にながめて、それ原形体が胞子を生じた、それ胞壁を生じた、それ茎を生じたと悦ぶは、実は活動する原形体が死んで胞子や胞壁に固まり化するので、一旦、胞子、胞壁に固まらんとしかけた原形体が、またお流れとなって原形体に戻るは、粘菌が死んだと見えて実は原形体となって活動を始めたのだ。 今もニューギニア等の土蕃は死を哀れむべきこととせず、人間が卑下の現世を脱して微妙高尚の未来世に生ずるの一段階に過ぎずとするも、むやみに笑うべきでない。
因はそれがなくては果がおこらず。また因異なればそれに伴って果も異なるもの、縁は一因果の継続中に他因果の継続が竄入し来たるもの、それが多少の影響を加うるときは起、(中略)故にわれわれは諸他の因果をこの身に継続しおる。縁に至りては一瞬に無数にあう。それが心のとめよう、体のふれようで事をおこし(起)、それより今まで続けて来たれる因果の行動が、軌道をはずれゆき、またはずれた物が、軌道に復しゆくなり。予の曼荼羅の「要言、煩わしからずと謂うべし」というべき解はこれに止まる。
「"縁",因 - 果について,その他」より
大乗は望みあり。何となれば、大日如来に帰して、無尽無究の大宇宙の大宇宙のまだ大宇宙を包蔵する大宇宙を、たとえば顕微鏡一台を買うてだに一生楽しむところが尽きず、そのごとく楽しむところ尽きざればなり。
不思議ということあり。事不思議あり。物不思議あり。心不思議あり。理不思議あり。大日如来の大不思議あり。
世界にまるで不用の物なし。多くの菌類や
小生思うに、わが国特有の天然風景はわが国の曼陀羅ならん。