(概説の4)
『日本紀』に日本武尊東夷を平らげて碓日坂に到り、前日自身に代って水死した弟橘媛を追懐して東南を望み、吾嬬はや、と三たび嘆じた。それから東国をアズマと呼ぶとある。鳥が鳴くアズマのアズマだけ分って、鳥が分らぬ。宮崎道三郎博士かつて『東洋学芸雑誌』に書かれたは、朝鮮語で晨をアチム、例推するに本邦で上世、晨すなわち日の出る事をアズマと呼び、東は日の出る方故、東国を朝早く鳴く鶏に併せて鳥が鳴く吾妻と称えただろうと、洵に正説で、ドイツでも朝も東も通じてモルゲンと名づくる。
前述の通り、『淮南子』に〈鶏まさに旦ならんを知り、鶴夜半を知る〉とあり、呉の陸は、鶴は鶏鳴く時また鳴くといった。烏が朝暮に定まって鳴くは周知された事、したがって伊勢・熱田等に鶏を神物とすると同時に、熊野を始め烏を神使とした社が多い。古エジプトには狗頭猴が旦暮に噪ぎ叫ぶよりこれを日神の象徴とした。
予は不案内だが、親友小鳥好きの人の話に、駒鳥は夜の九時になると必ずチーンと一声鳴き、爾後静まり返って朝まで音もせぬ由。当否は論ぜず、この事あるに由って古人が支那書の知更雀を駒鳥と訓ませたと見える。東牟婁郡第一の高山、大塔の峰で年久しく働く人々に聞いたは、かの山難所で時計など持ち行く者なく、鶏飼うべき所もないが、ちょうど一番鶏の鳴く頃ゴキトウゴキトウと鳴く鳥あり。暁に近づくとニエニエと鳴く鳥あり。昨夜はゴキトウの鳴くまで飲んだとか、ニエの声で起きたとか、あらまし時計代りに語り用ゆと。時計の運搬のならぬ処までも酒は行き渡り居るらしい。支那の三十六禽に雉と烏を鶏に属したは、鶏、烏と斉しく雉も朝夕を報ずるものにや。
『開元天宝遺事』に商山の隠士高太素、一時ごとに一猿ありて庭前に詣り鞠躬して啼く、目けて報時猿と為すと、時計の役を欠かさず勤めた重宝な猿松だ。『洞冥記』に影娥池の北に鳴琴の院あり、伺夜鶏あり、鼓節に随って鳴く、夜より暁に至る、一更ごとに一声を為し、五更に五声を為す、また五時鶏というとある。時計同様に正しく鳴く鶏だ。
『輟耕録』二四にかつて松江鍾山の浄行菴に至って、一の雄鶏を籠にして殿の東簷に置くを見てその故を請い問う。寺僧いわく、これを畜うて以て晨を司らしむ。けだし十余年なり、時刻爽わずと、余窃かに記す。張公文潜の『明道雑志』にいわく、鶏能く晨を司る事経伝に見われて以て至論と為す、しかれどもいまだ必ずしも然らざるなり。
あるいは天寒く鶏懶ければまさに旦ならんとするに至っていまだ鳴かず。あるいは夜月出る時、隣鶏ことごとく鳴く、大抵有情の物自ずから常ある能わずしてあるいは変ずるなり。もししからばすなわち張公が言非なるか、因って挙似して以てその所以を詢う、僧いう晨を司る鶏は必ず童を以てす。もし天真を壊らば豈能く常あらんや、けだし張公特にいまだこの理を知らざる故のみと記す。雄鶏を雌と隔離して一生交会せしめなんだら果して正しく時を報ずるものにや。暇多い人の実験を俟つ。
『世説新語補』四に賀太傅呉郡の大守と為りて初め門を出でず、呉中の諸強族これを軽んじ、すなわち府門に題していわく、会稽の鶏は啼く能わずと。賀聞きてことさらに出で行き、門に至りて反顧し、筆を求めてこれを足して曰く、啼くべからず、啼かばすなわち呉児を殺さんと。ここにおいて諸屯邸に至り、諸強族が官兵を役使しまた逋亡を蔵せるを検校し、ことごとく事を以て言上し、罪さるる者甚だ多し、陸杭時に江陵の都督たり、ことさらに孫皓に下請し、しかる後釈くを得たりとある。
昔細川幽斎、丹後の白杉という所へ鷹狩に出た時、何者か道の傍の田の畔に竹枝を立て書いた物を掛け置いた。見れば百姓の所為らしい落書だった。その文句に「一めいわく仕るはにがにがしき御仕置にて、さんざんしほうけごんご道断なり。六月の日てりには七貧乏をかかげはちをひかくふせい、くにに堪忍なるように十分にこれなくとも仰せ付けられ下さるべく候」と書き付けてあり、幽斎大いに笑い、閑雪という側坊主を召してその紙の奥に書かせたは、「十分の世の中にくせ事を申す百姓かな、八幡聞かまじきとは思えども、七生よりこの方六になきは地下の習い、ごくもんに懸るかしばりて腹をいんと思えども、さんりんに隠れぬれば、にくき仕方を引き替えて一国一命免すものなり」と。
かく書かせて元の所へ置かせられた(改定史籍集覧本『丹州三家物語』七三頁)、三国鼎争の最中や戦国わずかに一統された際の人間は、百姓までも荒々しいと同時に気骨あり、こんな落書をしたので、それを直様自ら返辞した大守もえらい。昨今の大臣や地方官も何卒せめて、この半分も稜ありて、自ら国民の非難を反駁し、理由さえ正しくば遠慮なしに打ち懲らされたい事じゃ。件の賀太守を会稽の鶏に比べたは、その頃会稽に鳴かぬ鶏が有名であったらしい。
予サンフランシスコへ着いて下宿の傍に鶏を多く畜う家の鶏が、毎夜規律なく啼き通すに呆れたが、その後スペイン人オヴィエドの『西印度誌』六を繙くと似た事を記しあった。いわく、スペインおよび欧州の多くの部分では鶏が夜央と日出に鳴き、ある鶏は一夜に三度、すなわち二時また三時と真夜中と曙光が見える四分の一時前とに鳴く。しかるに西インド辺では日没後一時、また二時して鳴き夜明け前一、二時また鳴くが夜中に鳴かぬ、ある鶏は夜の初更に鳴くきりでその他一度も鳴かぬ。
故に一夜に二回また一回鳴き、夜中には鳴く事なし、さて、西インドの最も多くの鶏は日出の一時半か二時前に唱うと。それから北アフリカや西伊仏国の猫は二月初半に喚き歩いて妻を呼ぶが、西インドへ輸入するとたちまち風変りとなって鳴き噪がず、その代りにいつ盛るという定めもなく年中唖でやり通しで、林中に食物多き故、野生となって大いに蕃殖す。鶏が時を違え猫がやり通しにし散らすも気候の影響だろうと論じ居る。
自分不案内の事ながら自分や知人どもが知り得た所に拠ると、どうも日本の鶏が雑種多くなるに伴れて鳴く時が一定せぬようになったと惟う。その理由を研究して多少明らめ得た所があれど今は述べず、読者諸君にも研究を勧め置く。南米のある地方へ鶏を移した時、どうも蕃殖せなんだが、この頃は蕃殖すると聞く。そのごとく外国種の鶏も追々土著しおわるに従って鳴く時も一定するはずかとも考える。
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