鶏に関する伝説(その29)

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  • 概説

  • (概説の3)

    「第3図 英国のコッケイド二種」のキャプション付きの図
     このシャパロンから出ただろうといわるるコッケイドという物がある。この名もコック(雄鶏)から出たらしく(『大英百科全書』十一板六巻六二二頁)、第三図イの通り鶏冠によく似たから付けた名と見ゆ。これは帽の一方のへりを高くり立たしめる事、昔流行はやりし帽の頂から緒でその縁を引っ張るため縁に穴あり、緒の端に付けたボタンを通して留めた、そのボタンと穴の周囲の環から化け出たというが通説だ(ウェッブ氏の書四四頁)。

    『大英百科全書』に、英仏その他で政党や軍士が古く形色各別のコッケイドをびた事、並びに欧州諸邦の王家それぞれコッケイドの色を異にした例を多く挙げいる。二十九年前の秋、予始めて渡英し王宮辺を徘徊すると、貴族の馬車絡繹らくえきたるその御者が、皆本邦神社の門側に立つ箭大臣やだいじん(『旧事紀』に豊磐間とよいわまどみこと櫛磐間くしいわまどみこと二神をして殿門を守らしむとあり、今の箭大臣はこの二神なるべしと『広益俗説弁』にあれど、『旧事紀』は正書でないから虚説で、その実仏寺の二王門を守るに倣いて作ったのだ)や、百人一首でおさ馴染なじみ業平なりひらの冠に著けた鍋取なべとりによく似た物を黒革作りで高帽の一側に著けあり。

    中には金魚が落雁らくがんを食ったような美少年も多く、南方先生「大内の小さ小舎人ことねりててにや/\」てふ古謡をおもい起し、寧楽なら・平安古宮廷の盛時を眼前に見る心地して、水ばなとともに散り掛かるプラタヌスの下に空腹ながら時ならぬ春を催しやした。かくてあるべきにあらざれば下宿へ還って『用捨箱ようしゃばこ』をひもとくと「鍋取公家なべとりくげというは卑しめていうにはあらず、老懸おいかけを掛けたるをいえるなり、老懸を俗に鍋取また釜取かまとりともいう」とある。

    釜取という名からまた先刻見た美少年どもを想い出したのも可笑おかしい。「さて今くりやにて鍋取を用うる家たまたまあれども草鞋わらじ足半あしなかの形に作れり、古製はしからず。小さき扇の形したるが、かの老懸に似たる故にしかいいしなり。左にうつしし画にてそのつくり様を見たもうべし(第四図イ)、『鹿苑院殿御元服記ろくおんいんどのごげんぷくき』永和元年三月の条、〈御車新造、東寺より御輿、御力者十三人、牛飼五人、雑色ぞうしき九人、車副くるまぞい釜取以下〉とあるは、老懸を附けし者の供奉ぐぶの事を記ししにて釜取といいしはいと古し。

    また『太平記抄』慶長十五年作二十四巻、巻纓けんえいの老懸の註に、老懸とは下々しもじもの者の鍋取というような物ぞと見え、寛永十九年の或記に浅黄あさぎ指貫さしぬき、鍋取を冠り、弓を持ち矢を負うとあり。貞室の『かたこと直し』慶安三年印本に※(「糸+委」、第3水準1-90-11)おいかけを鍋とりという事いかがと制したれど、その師貞徳ていとくの句にも見え近くは『仮名字例』(延宝四年印本)に「おいかけ、※(「糸+委」、第3水準1-90-11)、冠具。俗ナベトリというとあり、今は老懸を知らざる者なく、厨の鍋受は見ざる人多かるべし」、『油かす』寛永二十年編云々「公家くげと武家とはふたかしらなり」「なべとりをかぶとの脇に飾りつけ」前句に二頭ふたかしらとあれば、かぶり物を二つ取り合せ、武家冑、老懸公家と附けたるなり。

    『俳諧二番鶏』元禄十五年印本了我撰、前「下妻と八重に打ち合ふ春の風、一林」付「一枚さしたる櫛は鍋取、了我」、柳翁いわくこれも櫛を老懸に見立てし句なり。『空林風葉』天和三年刻自悦撰、節分「鍋取飛んでほうろく豆踊る今宵こよいの天、流辺」、上に録したる句は老懸をいいしにはあらず。この(すなわち第四図イ)鍋取の形を蝶鳥の翼に見立てし吟なり」とあった。
    「第4図」のキャプション付きの図

     『和名類聚鈔わみょうるいじゅしょう』に、〈※(「糸+委」、第3水準1-90-11)、和名冠ノオ、老人もとどり落つるを※(「糸+委」、第3水準1-90-11)を以て繋ぐ〉とあり。『康煕字典』を見ると、冠の緒をも緒を係る飾りをも※(「糸+委」、第3水準1-90-11)すいといったらしく、その飾りはせみの形や旄牛ぼうぎゅうの尾を立てたらしい。されば上出『仮名字例』等に※(「糸+委」、第3水準1-90-11)を老懸にてたは当りいる、これをオイカケというは緒を懸ける義で、老懸は当て字、それを強解するとて、髻落ちた老人は、※(「糸+委」、第3水準1-90-11)で繋ぎ留めるなどいうたのであろう。

    鎌倉時代に土御門通方卿つちみかどみちかたきょうが筆した『かざり抄』に、老懸古今厚薄異なるなり、古は外薄きなり、今は甚だ厚し云々と見ゆれば、仕立てに色々流行が異なったのだ。わが邦で弓矢を帯ぶる輩これを著けたは、昔英国で「コッケイドを立てる」とは兵士になったてふ意味だったと偶合する。鍋取また釜取は鍋釜の下に敷く物で、その古い形が老懸に似たので老懸を鍋取と俗称したは、『用捨箱』の説通りだ。

    さて老懸を櫛に、鍋取の形を蝶鳥の翼に見立てたのも、英国のコッケイド(第三図イ)の上に拡がり立てたファン(扇)と呼ばるる部分が、翼にも、櫛にも似いるに似ている。『用捨箱』の書かれた頃は、草鞋形の鍋取がたまたま用いられたそうだが、現に拙宅に伝え用いいる物は正円で、第三図ロに示す英国のコッケイドに似ている。

    かように似ているだらけによく似ているが、わが邦の老懸は支那の※(「糸+委」、第3水準1-90-11)から転化して冠とともにわが邦で発達したので、もと冠の緒を掛けるための設備、欧州のコッケイドは、老懸が冠の両傍に備わると違い、帽の一方のみに立てられ、その原型らしい物が、わずかに十五世紀にラブレーの書に初めて見え、まさか日本に模したのではあるまじければ、日本国より欧州に倣うたでもない。

    老懸も鍋取も、帽の一方の縁を起すために穿った穴と、それを通して帽頂に繋ぎ留めた緒の端のボタンとより出来上ったコッケイドとは全く同形異源だ。世間事物の外形は千変万化も大抵限りあれば、酷似せるものが箇々別源から出来上るも不思議ならず。その源由を察せずに、似た物は必ず同根同趣と判断するは大間違いじゃ。孟子とルッソー、大塩とクロムウェルを同視したり、甚だしきは、米国学者が、貝原益軒は共和政治を主張したと言ったとて感心しいる人もある故、一言し置く。

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    「鶏に関する伝説」は『十二支考〈下〉』 (岩波文庫)に所収

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