鶏に関する伝説(その13)

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  • 概説

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     西鶴の『一代男』二、「旅の出来心」の条、江尻の宿女せし者の話に「また冬の夜は寝道具を貸すようにして貸さず、庭鳥のとまり竹に湯を仕掛けて、夜深よぶかに鳴かせて夢まさせて追い出し、色々つらく当りぬるその報いいかばかり、今のがれてのありがたさよ云々」。

    この湯仕掛けで鶏を早鳴はやなきせしむる法は中国書にもあったと記憶する。木曾の松本平の倉科くらしな様ちゅう長者が、都へ宝くらべにとて、あまたの財宝を馬に積んで木曾街道を上り、妻籠つまごの宿に泊った晩、三人の強盗、途中でその宝を奪おうと企て、その中一名は宿屋に入って鶏の足を暖め、夜更よふけに時を作らせて、まだ暗い中に出立させた。長者が馬籠まごめ峠の小路に掛かり、あざ男垂おたるという所まで来た時、三賊出でて竹槍で突き殺し、宝を奪い去った。その宝の中に黄金の鶏が一つ落ちて、川に流れて男垂の滝壺に入った。今も元旦にその鶏がここで時を作るという。長者の妻、そののち跡を尋ね来てこの有様を見、悲憤の余りに「粟稗たたれ」とのろうた。そのために後日、向山という所大いに崩れ、住民くるしんでほこらを建て神にまつったが、今も倉科様てふ祠ある(『郷土研究』四巻九号五五六頁、林六郎氏報)。

    阿波の国那賀郡桑野村の富人某方へ六部来て一夜の宿をとった。主人その黄金の鶏と、一寸四方の箱に収まる蚊帳かやを持ちいると聞き、翌朝早く出掛けた六部の跡をつけ、濁りが淵で斬り殺した。鶏は飛び去ったが蚊帳は手に入った。その六部の血で今も淵の水赤く濁る。その家今もむした餅をかず、搗けば必ず餅に血がまじるのでひき餅を搗く。蚊帳は現存す(同上一巻二号一一七頁、吉川泰人氏報)。

     『甲子夜話』続一三に、ある人曰く、大槻玄沢おおつきげんたくが語りしは、奥州栗原郡三の戸畑村の中に鶏坂というあり。ここより、さきの頃純金の鶏を掘り出だしける事あり。その故を尋ぬるに、この畑村に、昔炭焼き藤太という者居住す。その家の辺より沙金を拾い得たり。因ってついには富を重ね、故に金を以て鶏形一双を作り、山神を祭り、炭とともに土中に埋む、因ってそこを鶏坂という。これ貞享じょうきょう三年印本『藤太行状』というに載せたりと。

    また文化十五年四月そこの農夫、沙金を拾わんため山を穿うがちしに、岸の崩れより一双の金鶏を獲たり。重さ百銭目にして、山神の二字を彫り付けあり。この藤太は近衛院の御時の人にて、金商橘次、橘内橘王が父なりと。今もその夫婦の石塔その地にあり云々。

    『東鑑』〈文治二年八月十六日午のこく、西行上人退出す、しきりに抑留すといえども、えてこれにかかわらず、二品にほん(頼朝)銀を以て猫を作り贈物にてらる、上人たちまちこれを拝領し、門外において放遊せる嬰児に与う云々〉。因って思うにこの頃の人はかくのごとくに金銀を以て形造の物ありしかと。元魏の朝に、南天竺優禅尼うぜんに国の王子月婆首那が訳出した『僧伽※(「咤−宀」、第3水準1-14-85)そうがた経』三に、人あり、樹をうるに即日芽を生じ、一日にして一由旬の長さに及び、花さき、実る。王自ら種え試みるに、芽も花も生ぜず、大いに怒って諸臣をしてかの人えたる樹をらしむるに、一樹を断てば十二樹を生じ、十二樹を切れば二十四樹を生じ、茎葉花果皆七宝なり。爾時そのとき二十四樹変じて、二十四億の鶏鳥、金の嘴、七宝の羽翼なるを生ずという。

    これもインドで古く金宝もて鶏の像を造る習俗があったらしい。『大清一統志』三〇五、雲南うんなんに、金馬、碧鶏二山あり。『漢書』に宣帝神爵と改元した時、あるいは言う、益州に、金馬、碧鶏の神あり。※(「酉+焦」、第4水準2-90-41)しょうさいして致すべしと。ここにおいて諫大夫王褒おうほうを遣わし、節を持ってこれを求めしむと。註に曰く、金形馬に似、碧形鶏に似ると。これも金で馬、碧すなわち紺青こんじょうで鶏を作り、神とあがめいたのであろう。本邦にも古く太陽崇拝に聯絡して黄金で鶏を作り祀りしを、後には宝として蔵する風があったらしい。

    十一年前、余、紀州日高郡上山路村で聞いたは、近村竜神村大字竜神は、古来温泉で著名だが、上に述べた阿波の濁りが淵同様の伝説あり。所の者は秘して語らず。昔熊野詣り比丘尼びくに一人ここへ来て宿る。金多く持てるを主人が見て悪党を催し、鶏が止まる竹に湯を通し、夜中に鳴かせて、最早もはや暁近いと欺き、尼を出立させ、途中に待ち伏せて殺し、その金を奪うた。その時、尼うらんで永劫えいごうここの男が妻に先立って若死するようとのろうて絶命した。そこを比丘尼はぎという。その後果して竜神の家つねに夫は早世し、後家世帯が通例となる。その尼のために小祠を立て、いわい込んだが毎度火災ありてたたりやまずと。尼がかく詛うたは、宿主の悪謀を、その妻がいさめたというような事があった故であろう。

    かつて東牟婁郡高池町の素封家、佐藤長右衛門氏をたずねた時、船を用意して古座川を上り、有名な一枚岩を見せられた。十二月の厳寒に、多くの人が鳶口とびぐちいかだを引いて水中を歩く辛苦をいたみ尋ねると、この働き、烈しく身にさわり、真砂という地の男子ことごとく五十以下で死するが常だが、故郷離れがたくて、皆々かく渡世すと答えた。

    竜神に男子の早世多きも何かその理由あり。決して比丘尼の詛いに由らぬはもちろんながら、この辺、昔の熊野街道で色々土人が旅客を困らせた事あったらしく、西鶴の『本朝二十不孝』巻二「旅行の暮の僧にてそうろう、熊野に娘優しき草の屋」の一章など、小説ながら当時しばしば聞き及んだ事実にったのだろう。そのはなしにも竜神の伝説同様、旅僧が小判多く持ったとばかり言うて、金作りの鶏と言わず、熊野のはなしは東北国のより新しく作られ、その頃既に金製の鶏を宝とする風なかったものか。

    この竜神の伝説を『現代』へ投じた後数日、『大阪毎日』紙を見ると、その大正九年十二月二十三日分に、竜神の豪家竜神家の嗣子が病名さえ分らぬ煩いで困りおる内、その夫人に催眠術を掛けるとにわかに「私は甲州の者で、百二十年前夫に死に別れ、悲しさの余り比丘尼になり、世の中に亡夫に似た人はないかと巡礼中、この家に来り泊り、探る内、私の持った大判小判に目がくれ、竜神より上山路村を東へ越す捷径ちかみち、センブ越えを越す途上、私は途中で殺され、面皮を剥いで谷へ投げられ、金は全部取られた。その怨みでこの家へ祟るのである」と血相変えて述べおわって覚めたと出た。

    それに対して竜神家より正誤申込みが一月十九日分に出た、いわく、百五十年ほど前、一尼僧この地に来り、松葉屋に泊り出立せしを、松葉屋と中屋の二主人が途中で殺し、その金を奪うた報いで両家断絶し、今にそのあとあり云々。これを誤報附会したのでないかと。

    この竜神氏、当主は余の旧知で、伊達千広(陸奥宗光伯の父)の『竜神出湯日記』に、竜神一族は源三位頼政みなもとのさんみよりまさの五男、和泉守頼氏いずみのかみよりうじこの山中に落ち来てこの奥なる殿垣内とのがいとに隠れ住めり、殿といえるもその故なり。末孫、今に竜神を氏とし、名に政の字を付くと語るに、その古えさえ忍ばれて「桜花本の根ざしを尋ねずば、たゞ深山木みやまぎとみてや過ぎなむ」とあるほどのふるい豪家故、比丘尼を殺し金を奪うはずなく全くの誤報らしいが、また一方にはその土地の一、二人がした悪事が年所を経ても磨滅せず、その土地一汎いっぱんの悪名となり、気の弱い者の脳底に潜在し、時に発作して、他人がした事を自家の先祖がしたごとく附会して、狂語を放つ例も変態心理学の書にしばしば見受ける。

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    「鶏に関する伝説」は『十二支考〈下〉』 (岩波文庫)に所収

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