また按ずるにホワイトの『セルボルン博物志』に牛が沢中に草食う際、鶺鴒その身辺を飛び廻り、鼻に接し腹下を
潜って牛に著いた蠅を食う。天の経済に長ぜるかかる縁遠き二物をして各々自利利他せしむと書いて、利はよく他人同士を和せしむというたは、義は利の和なりてふ支那の文句にも合えば、ちと危険思想らしいがクロポトキンの『互助論』にもありそうな。
惟うに鶺鴒は支那で馬の害虫を除く功あるのでなかろうか。
張華の『博物志』三に〈蜀山の南高山上に物あり、猴のごとく長七尺、能く人行健走す、名づけて猴※[#「けものへん+矍」、127-10]という、一名馬化、同じく道を行く婦人に、好き者あればすなわちこれを盗みて以て去る〉、『奥羽観跡聞老志』四に、駒岳の神は、昔馬首獣の者生まれ、父母怖れて棄つると猴が葛の葉を食わせて育てた、死後この神と成ったと出づ。『マハバーラタ』にはハリー神女が馬と猴の母だという。こうなるとどうも猴と馬が近親らしい。
『虎経』に猴を厩に畜えば馬のために悪を避け、疥癬を去るとある。悪を避けは西洋でいう邪視を避くる事でこれが一番確説らしい。アラビア人など駿馬が悪鬼や人の羨み見る眼毒に中らるるを恐るる事甚だしく、種々の物を佩びしめてこれを避く。和漢とも本邪視を避くるため猴を厩に置き、馬を睨むものの眼毒を種々走り廻る猿の方へ転じて力抜けせしめる企みだったのだ。また疥癬を去るとあるより推すに、馬の毛に付いた虫や卵を猴が取って馬を安んずるのかも知れぬ。
烟管を掃除したり小児の頭髪を探ったりよくする。『新増
犬筑波集』に「秘蔵の花の枝をこそ折れ」「引き寄せてつぶり春風我息子」「
虱見るまねするは
壬生猿」。壬生猿何の義か知らぬが、猴同士虱を捜り合うは毎度見及ぶ。しかるに知人アッケルマンの『ポピュラー・ファラシース』にいわく、ロンドン動物園書記ミッチェル博士がかの園の案内記に書いたは、世人一汎に想うと反対に、猴が
蚤に
咋わるる事極めて
稀だ。そは猴ども互いにしばしば毛を探り合うからだが、それにしても猴が毛を探って何か取り食うは多くは蚤でなくて、時々皮膚の細孔から出る
鹹き排出物の細塊であると。ただし虱の事を書いていないは物足らぬ。
この話で思い出したは享保二十年板其碩の『渡世身持談義』五、有徳上人の語に「しからばあまねく情知りの太夫と名を顕わさんがために身上りしての間夫狂いとや、さもあらば親方も遣り手も商い事の方便と合点して、強ちに間夫をせき客の吟味はせまじき事なるに、様々の折檻を加うるはこれいかに、その上三ヶ津を始め諸国の色里に深間の男と廓を去り、また浮名立ててもその間夫の事思い切らぬ故に、年季の中にまた遠国の色里へ売りてやられ、あるいは廓より茶屋風呂屋の猿と変じて垢を掻いて名を流す女郎あり、これ皆町の息子親の呼んで当てがう女房を嫌い、傾城に泥みて勘当受け、跡職を得取らずして紙子一重の境界となる類い、我身知らずの性悪という者ならずや」、風呂屋の猿とは『嬉遊笑覧』九に、『一代女』五、一夜を銀六匁にて呼子鳥、これ伝受女なり、覚束なくて尋ねけるに、風呂者を猿というなるべし。暮方より人に呼ばれける(風呂屋女に仇名を付けて猿というは垢をかくという意となり)とあり。
正徳元年板其碩の『傾城禁短気』に「この津の橋々に隠れなき名題の呂州(風呂屋女を指す)猿女上人」、一向宗の顕如に猿をいいかけたり。元禄十三年板『御前義経記』五にも「以前の異名は湯屋猿と申し煩悩の垢をすりたる身」とあり。それから『信長記』八「美濃近江の境に山中という処、道傍にいつも変らずいる乞食あり。信長その故を問うに在処の者いう、昔当所山中の処にて常磐御前を殺せし者の子孫、代々頑わ者と生まれて乞食す、山中の猿とはこの者と、六月二十六日上洛取り紛れ半ば、かの者の事思い出で、木綿二十反手ずから取り出し猿に下され、この半分にて処の者隣家に小屋をさし、飢死せざるように情を掛け、隣郷の者ども、麦、出候わば麦を一度、秋後には米を一度、一年に二度ずつ取らすべしと」。これは代々不具な賤民を貌の醜きより猿と名づけたと見える。
終りに述べ置くは、インドとシャムで象厩に猴を畜えば、象を息災にすと信ずる由書いたが、近日一七七一年パリ板ツルパンの『暹羅史』に、シャムの象厩に猴を飼い、邪気が厩を襲えば猴これを引き受け象害を免がる。象は天禀猴を愛するとあるを見出した。邪気とは只今学者どものいう邪視で、猴が避雷針様に邪視力を導き去るから、象、難を免るるのだ。前述熊野の牛舎の例もあり、猴を繋ぐは馬厩に限らぬと判る。
さて、前年予植物同士相好き嫌いする説をロンドンで出し大いに注意を惹いたが、その後彼方よりの来信を見るに、綿羊は常に鹿の蕃殖を妨げ、山羊を牛舎に飼えば、牛、常に息災で肥え太る由一汎に信ぜらるという。ロメーンズの『動物智慧論』にもが太く猫を愛した例を出す。惟うに害虫駆除とか邪視を避くるとかのほかに、実際、象、馬、牛は天禀猴を好むのかも知れぬ。この事深く心理学者や農学者、獣医諸君の研究を俟つ次第である。
(大正九年十二月、『太陽』二六ノ一四)
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