(民俗2の11)
猴を神使とせる例、『若狭郡県志』に上中郡賀茂村の賀茂大明神降臨した時白猿供奉す、その指した所に社を立てた。飛騨宕井戸村山王宮は田畑の神らしい。毎年越中魚津村山王より一両度常のより大きく薄白毛の猴舟津町藤橋を渡りてここへ使に参る(『高原旧事』)、江州伊香郡坂口村の菅山寺は昔猴が案内して勅使に示した霊地の由(『近江輿地誌略』九〇)、下野より会津方面にかけて広く行わるる口碑に、猿王山姫と交わり、京より奥羽に至り、勇者磐次磐三郎を生む、猿王二荒神を助け赤城神を攻めて勝ち、その賞に狩の権を得、山を司ると(『郷土研究』二の一、柳田氏の説)。これはハヌマンの譚に似居る。
厳島の神獣として猴多くいたがその屍を見た者なきに何処へ行ったか今は一疋も見えぬ(同四の二、横田氏説)というは、先述ハヌマン猴は屍を隠すてふインド説に近い。かつて其諺翁の『滑稽雑談』三に猿の口開き、こは安芸宮島にある祭なり。この島猴もっとも多し、毎年二月十一日申の日を限り、同国島の八幡の社司七日の間祓を行い、申の日に至りてこの島に来り、猿の口開の神事を行う。この日より後この島の猴声を発すといえり。また十一月上申の日件の社司祓神事を行う事二月のごとし、猿の口止の神事というなり。この後猴声を入るるなりとあるを読んで、何とか実地研究と志しいたところ、右の報告を見てお生憎様と知った。
『厳神鈔』に山王権現第一の使者に猿、第二の使者鹿なり。春日大明神第一の使者は鹿、第二の使者は猿なり。日吉にも、インド、セイロン同然猴は屍を匿す話行われ、唐崎まで通ずる猿塚なる穴あり、老い果てた猿はこの穴に入りて出ざる由。猿果てたる姿見た者なし、当社の使者奇妙の働き〈古今勝げて計うべからず〉という(『日吉社神道秘密記』)。『厳神鈔』に、初め小比叡峰へ山王三座来りしが、大宮は他所へ移り、二の宮は元よりこの山の地主故独り住まる。その時猿形の山神集まりて種々の遊びをして慰めた。これを猿楽の一の縁起と申す。『日吉社神道秘密記』に、〈大行事権現、僧形猿面、毘沙門弥行事、猿行事これに同じ、猿田彦大王、天上第一の智禅〉。
『厳神鈔』に大行事権現は山王の惣後見たり、一切の行事をなすと出づ。すべて日吉に二十一社ありて仏神の混合甚だしく、記録に牽強多くて事歴の真相知れがたきも、大体を稽うるに、伝教大師この社を延暦寺に結び付けた遥か以前に、二の宮この山の地主と斎かれた。そのまた前に猴をこの山の主として敬いいたのがこの山の原始地主で、上に引いたコンウェイの言に倣うていえば、拝猴教が二の宮宗に、二の宮宗が一層新米の両部神道に併され、最旧教の本尊たりし猴神は記紀の猿田彦と同一視され、大行事権現として二十一社の中班に例したは以前に比して大いに失意なるべきも、その一党の猴どもは日吉の神使として栄え、大行事猴神また山王の総後見として万事世話するの地位を占め得たるは、よく天命の帰する所を知りて身を保ったとも一族を安んじたともいうべく、また以てわが邦諸教和雍寛洪の風に富めるを知るべし。
『厳神鈔』に「日吉と申すは七日天にて御す故なり、日吉の葵、加茂の桂と申す事も、葵は日の精霊故に葵を以て御飾りとし、加茂は月天にて御す故に桂を以て御飾りとす」など、日吉の名義定説なきも、何か日の崇拝に関係ある文字とは判る。バッジいわく、古エジプト人の『死者の書』に六、七の狗頭猴旭に向い手を挙げて呼ぶ体を画いたは暁の精を表わし、日が地平より上りおわればこの猴になると附記した。けだしアフリカの林中に日出前毎にこの猴喧嘩するを暁の精が旭日を歓迎頌讃すと心得たからだと。これすこぶる支那で烏を日精とするに似る。日吉山王が猴を使者とするにこの辺の意義もありなん。夜明けに逸早く起きて叫び噪ぐは日本の猴もしかり。
『和漢三才図会』に、猴、触穢を忌む。血を見ればすなわち愁うとあるが、糞をやり散らすので誠に閉口だ。果して触穢を忌むにや。次に〈念珠を見るを悪む。これ生を喜び死を悪むの意、因って嘉儀の物と為しこれを弄ぶ〉とある。吾輩毎度農民に聞くところは例のさるまさるとて蓄殖の意に取るらしく、熊野では毎初春猴舞わしが巡り来て牛舎前でこれを舞わす。また猴の手をその戸に懸け埋めて牛息災なりという。エルウォーシーの『邪視編』に諸国で手の形を画いて邪視を防ぐ論あり。今もこの辺で元三大師の手印などを門上に懸くる。されば猴を嘉儀の物とするに雑多の理由あるべきも邪視を避くるのがその随一だろう。ここには猴に関してのみ略説しよう。その詳説は『東京人類学雑誌』二七八号拙文「出口君の小児と魔除を読む」を見られよ。
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