(民俗1の3)
インドでも子欲しき女はハヌマン猴神の祠に往き燈明を供える。古伝にアハリアは梵天創世最初に造った女で瞿曇仙人の妻たり。帝釈かかる美婦を仙人などに添わせ置くは気が利かぬと謀叛を起し、月神チャンドラを従え雄鶏に化けて瞿曇の不在を覘い、月神を門外に立たせ、自ら瞿曇に化け、入りてその妻と通じた処へ瞿曇帰り来れど月神これを知らず、瞿曇現場へ踏み込み、呵して帝釈を石に化し千の子宮を付けて水底に沈めた。後諸神これを憐み千の眼に取り替えやった。一説には瞿曇詛うて帝釈を去勢したるを諸神憐んで羊の睾丸で補充したという(グベルナチス『動物譚原』一巻四一四頁、二巻二八〇頁)。
この事仏典にも出で、僧伽斯那所撰『菩薩本縁経』二に、月光王の首を乞いに来た老梵志が婆羅門の威力に誇る辞中、瞿曇仙人釈の身上において千の女根を化し、婆私仙は帝釈の身を変じて羯羊形と為すとある。
一九一四年ボンベイ板エントホヴェンの『グジャラット民俗記』五四頁にいわく、一説に帝釈瞿曇の妻に通じた時アンジャニ女帝釈を助けた故、瞿曇これを詛いて父なし子を生むべしという。アンジャニ惧れて腰まで地中に埋め苦行して、シワ神に救いを求む。シワその志を感じ風神ナラダして真言を彼女の耳に吹き込ませたに、ナラダこれをその子宮に吹き込む。因って孕んでハヌマンを生んだ。これを孕む時近所の木にケシてふ猴居るを見たから、ハヌマンは猴の形を受けたというと。
セマン人いわく、太古夫婦あれど子を生む事を知らず、他の諸動物皆子あるに我独りなしと恥じ入り、薪を拘えて子を持ったごとく見せかけた。椰子猴(ブロク、上出)これに逢うて気の毒がり、「神代巻」の鶺鴒の役を勤めて子を拵える法を教えたので、一心不乱に教え通り行い二男二女を生んだ。この同胞二組がまた猴の教え通り行うて子供が出来た。その時鴿来ってかかる骨肉間の婚媾は宜しからずといったところで仕方がないから、一旦離別して互いに今までのと人を替えて婚姻すれば構いなしと教えたと(スキートおよびブラグデン、巻二、頁二一八)。
されば猴に子を祈る事必ずしもインドにのみ始まったと思われず、しかしコータンの故趾からハヌマン像を見出した事もあり(一八九三年板ランスデルの『支那領中央亜細亜』巻二、頁一七六)、昔博通多学の婆羅門が仏教に対して梵教を支那で興しに来た記録もあれば(『高僧伝』六)、甚目寺等で猴像に子を乞うのはあるいはハヌマン崇拝から転化したのかと惟う。
南インドプルバンデルの諸王はハヌマン猴神の裔で尾ありという(ユールの『マルコ・ポロの書』一八七五年板、巻二、頁二八五)。ただし人間に相違ないから猴が化したともいわれず。猴神子なき女を不便がる余り、自ら手を付けて生ませた後胤か、不審に堪えぬ。
ハヌマン猴、学名セムノピテクス・エンテルス(第五図)はインドに産し、幼時灰茶色で脊より腰へ掛けて暗茶色の一条あり、長ずるに随い黒毛を混じ石板色となる。顔と四肢は黒く鼻より尾根まで三、四フィート、尾はそれより長し。他猴と異なり果よりも葉を嗜み、牛羊同然複胃あり。鼻梁やや人に近く、諸猴に優れて相好美し(ウットの『博物画譜』一)。
この猴の大群昔その王ハヌマンに従い神軍に大功ありしとて、ハヌマン猴の称あり。ヒンズー教徒のヴィシュニュ(仏典の韋紐)を奉ずる輩もっともハヌマン神を尊べども他派の者もまたこれを敬し、寺堂園林より曠野に至るまでその像を立てざるなく、韋紐の信者多き地にはその像に逢わずに咫尺も歩み得ず、これに供うるは天産物のみで血牲を用いず、猴野生する処へは日々飯菓等の食物を持ち往き養い最大功徳とす(ジュボア『印度の風俗習慣および礼儀』二巻六章)。
一七二七年板、ハミルトンの『東印度記』に、ヴィザガパタムの堂に生きた猴を祀る、数百の猴食時ここに集まり僧が供うる飯などを享け、食しおわって列を正して退く、その辺で人を殺すは猴を殺すほど危うからずといい、十七世紀に旅したタヴェルニエーの『印度紀行』には、アーマダバット附近の猴、火金両曜ごとに自らその日と知って市中に来り、住民が屋上に供えた稲稷甘蔗等を食い頬に貯えて去る。万一これを供えざれば大いに瞋って瓦を破ると述べた。されば今日もビナレスの寺院にハヌマン猴を夥しく供養し、また諸市のバザーに入って人と対等で闊歩し、手当り次第掴み歩く。
紀州田辺の紀の世和志と戯号した人が天保五年に書いた『
弥生の磯』ちゅう写本に、厳島の社内は更なり、町内に鹿夥しく人馴れて遊ぶ、猴も屋根に来りて集う。家々に猴鹿の食物を荒らさぬ用意を致すとあるを見て、インドでハヌマン猴の持てようを想うべし。
タヴェルニエーまたサルセッテ島にハヌマン猴王の骨と爪を蔵する銀棺を祀れる塔あり、インド諸地より行列して拝みに来る者引きも切らざりしを、ゴアの天主教大僧正押して取る、ヒンズー教徒莫大の金を以て償わんと乞い、ゴアの住民これを許しその金を以て軍を調え貧民を扶くべしと議せしも聴かれず、これを焼けばその灰を集めてまた祀るを慮り、棺を海上二十里漕ぎ出し海に沈めたと述べた。
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