(民俗1の2)
スラバヤ同様猴に懐妊を祈ること出口米吉氏の「土俗覧帳」(『人類学雑誌』二八巻十号)に『大朝』紙を引いて、尾張海東郡甚目寺観音院境内にオサルサマあり、子を授くるとて信者多し、その本尊木彫の猴、高さ一尺内外の坐像、半身大の桃実を抱き真向に坐す。なおこの正体のほかにこれに似た一猴像あり、こは今より百年以前非常に流行せしために更に一の副像を造れるなり。この猴の像を借り受けて寝る時はたちまち子を授かるとて諸方よりこれを借る者多かりし故なり。今も借りに来る者多く、借料一週間一円なりというと見ゆ。
マレー群島のチモル・ラウトでは婚礼の宴席で新夫婦の間に、一男児と一女児を坐らせ子を生むべく祝い、チンギアウスでは婚姻の初夜一童を夫婦間に眠らしむ(英訳ラッツェル『人類史』一巻四四〇頁)。
『隋書』に〈女国は葱嶺の南にあり、云々、樹神あり、歳初め人を以て祭り、あるいは猴を用いて祭る〉。これは『抱朴子』に〈周穆王南征す、一軍皆化して、君子はと為り鶴と為り、小人は虫と為り沙と為る〉。
『風来六々部集』に「一つ長屋の佐治兵衛殿、四国を廻って猴となるんの、伴れて還ろと思うたが、お猴の身なれば置いて来たんの」てふ俗謡を載せ、アフリカのアクラでは猴を神僕と呼び、人間が生まれ損うたものといい、セラコット人とマダカスカル島民は人が罪業のために猴になったと信ず(シュルツェの『デル・フェチシスム』五章六章)。
一六八四年パリ板サントスの『東エチオピア史』一巻七章に、カフル人は猴はもと人だったが、言えば働かさるるを嫌い猴となって言わずと説くとある。この通り猴は人の化けたものというところから、昔中央アジアの女国、すなわち女王を奉じ婦女の政権強かった国では、元来人を牲にし樹神を祭ったところ、追い追い猴も人と余り異ならぬてふ見解から猴を人の身代りに牲し祭ったのだ。
それと同様夫婦の間に他人の子を寝かせて子が生まれるよう祝したのが、猴も人に異ならぬはずといったところから、甚目寺等の猴像を借り用ゆる事となったと見える。余り褒めた事でないが文化の頂上と自ら誇る米国人中にすら、初目見えに来た嬰児を夫婦の寝床に臥せしむれば必ず子を産むと信ずる者あれば、無茶に尾張の風俗を笑ったものでない(一八九六年板バーゲン編『英語通用民の流行迷信』二五頁)。
サウゼイの『随得手録』第二輯に、インドのヌデシャの王エースウルチュンズルは、猴を婚するに十万ルピイを費やし、盛装せる乗馬、車駕、駝象の大行列中に雄猴を維いで輿に載せ、頭に冠を戴かせ、輿側に人ありてこれを扇ぎ、炬火晶燈見る人の眼を眩ませ、花火を掲げ、嬋娟たる妓女インドにありたけの音曲を尽し、舞踊、楽歌、放飲、豪食、十二日に竟り、梵士教法に従い誦経して雌雄猴を婚せしめたと出づるも、王夫妻の相愛または猴にあやかって子を産むようの祈願から出たのであろう。
和歌山市附近有本という処に山王の小祠あり、格子越しに覗けば瓦製の大小の猴像で満たされて居る。臨月の産婦その一を借りて蓐頭に祭り、安産の後瓦町という処で売る同様の猴像を添え、二疋にして返納する事、京都北野の子貰い人形のごとし。今年長崎市発行『土の鈴』二輯へ予記臆のままその瓦猴の旧像の図を出した。
第一輯に写真した物は近来ハイカラ式の物だ。猴は安産する上痘瘡軽き故、かく産婦が祭る由聞いた。マレーの産婦は猴に触れば額と目が猴のような醜い児を生むとて忌む由(ラッツェル『人類史』巻一、頁四七二)。
帝国書院刊本『塩尻』三四に、主上疱瘡の御事ある時は坂本山王の社に養える猴必ず疱瘡す、御痘軽ければ猿の病重く、皇家重らせたまえば猴やがて快くなるといい伝う。後光明帝崩御の時坂本の猴軽き疱瘡なりしとかや、今度新帝(東山天皇)御医薬の時山王の猴もまた疱瘡煩いける、被衣調えさせてかの猴にきせさせたまいしがほどなく死にけり、帝はやがて御本復ありし、もっともふしぎなりけり。古の書にも見えず近代の俗説にやとある。
今も天王寺の境内に猴を畜い、俗衆その堂に眼(?)病を祈るに必ず癒ゆ。しかるに猴は迷惑千万にも毎に眼を病むと十年ほど前の『大毎』紙に出た。これら前述通り、猴は人に近いもの故、人の病は猴また受くるはずと考え、英語でいわゆるスケイプ・ゴートとして病を移し去るつもりで仕始めたのであろう。
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