(その13)
『類聚名物考』三三七に『輟耕録』から引いて、趙生なる者貧しく暮す、一日木を伐りに行って大きな白蛇が噬まんとするを見、逃げ帰って妻に語ると白鼠、白蛇は宝物の変化だろうと思い、夫を勧めて共に往きその蛇に随って巌穴に入り、昔唐の賊黄巣が埋めた無数の金銀を得て大いに富んだという。今按ずるに、世俗に白鼠は大黒天の使令とし白蛇は弁財天の使令として福神の下属という、これ西土の書にも世々いう事と見ゆと記す。
『葆光録』に曰く、陳太なる貧人好んで施す、かつて夜一の白鼠を見るに色雪のごとし、樹に縁って上下し、追えども去らず、陳その妻子に言いしは、衆人言う、白鼠ある処には伏蔵ありと、これを掘って白金五十錠を獲たと(『淵鑑類函』四三二)。宝永六年板『子孫大黒柱』四に『博物志』に『白沢図』という書を引いて黄金の精を石糖といえり、その状豚のごとし、これは人家にあって白鼠を妻とす云々。
『宋高僧伝』二に、弘法大師の師匠の師匠の師匠のまた師匠善無畏が烏萇国に至った時、白鼠あり馴れ遶りて日々金銭を献ず。予未見の書『異苑』に西域に鼠王国あり、鼠大なるは狗のごとく、中なるは兎、小なるは常の鼠のごとし、頭ことごとく白く、帯しむるに金枷を以てす、商賈その国を経過するありて、まず祀らざれば人の衣裳を噛む、沙門の呪願を得れば他なきを獲、晋の釈道安、昔西方に至り親しくかくのごときを見たという(『類函』四三二)。
もと鼠は物を損じ汚す事夥しく、かつ窮する時は人や獣をも食うので、鼠のために全滅した聚落や、村を立て得なんだ土地さえあり(プリニウスの『博物志』巻八、章四三。ピンカントン『海陸紀行全集』の記事は上に引いた)、因って多くの国でこれを凶物としその鳴くを聞くを不吉とす(ジャクソンの『コンカン民俗記』八四頁、コラン・ド・プランシーの『妖怪事彙』四二六頁、アボットの『マセドニア民俗記』一〇八頁)、英国の南ノルサンプトンでは今まで無事だった家へ急に鼠が侵入すれば家人が遠からぬ内に死に、鼠が人の上を走ればその人必ず死し、
病蓐辺で鼠鳴けば病人助からずという(一八五九年板『ノーツ・エンド・キーリス抄記』一二頁)。
支那でも『論衡』に鼠一筐を渉れば飯捐てて食われず、古アングロ・サキソン時代に英国で犬や鼠の食い残しを知って食ったら神頌を百遍、知らずに食ったら五十遍唄わせた(一八四六年板、ライトの『中世英国文学迷信歴史論文集』巻一、頁二四一)。小アジアのユールーク人が熊や羚羊の飲んだ跡の水を文明人が飲むと自分らごとき蛮民になると信ずるごとく(一八九一年板、ガーネットの『土耳其女および風俗』二巻二一三頁)、鼠の残食を参れば鼠の性を受くると信じたのだ。
かく忌み嫌わるるもの故諸獣を神とし尊ぶ例多きも鼠を拝む例は少ない。『大英百科全書』十一板二巻動物崇拝の条にも挙げていない。吾輩知る所を以てすれば、西半球にシュー人は鼠の近類たる麝香鼠を創世神の一とす(一九一六年板、スペンスの『北米印甸人の鬼神誌』二七一頁)。東半球には何でも中央アジアのトルキスタン辺にシュー人と等しく鼠を利害に関せず祖霊とした崇拝が大いに行われ、上述ごとく祖神がその子たる人間を護り、祈れば福利を与え、祈らずば損害を加うと信じ、支那で鼠を子年、子の方位の獣と立つる風と、インドで毘沙門を北方の守護とする経説を融通して、ついに毘沙門の後胤と称する国王も出で来れば、鼠の助力で匈奴に大捷した話も出で来たと見える。
而してわが邦に行わるる大黒と鼠を合せた崇拝も、実はこの毘沙門から移ったもの多く、初め厨神だったものが軍神として武士に祈らるるに及んだは、その親元たる毘沙門が富の神たると同時に軍神たるに基づく。
さて、中央アジアで毘沙門並びに鼠の崇拝盛んだった時は、金色の大鼠を鼠の王とし、頭の白い鼠をその眷属として専ら祀ったようだ。『嬉遊笑覧』十二上にいわく、番頭の白鼠とは大黒は黒を以て北方の色とし、北方子の位なれば鼠の使者とす。番頭利に賢ければ主人富む。主人は大黒、番頭は鼠のごとしと。
しかし上に引いた『異苑』の文を見ると、鼠崇拝の根本地では特に頭の白い鼠を祭ったのだから、その風が支那経由で日本に伝わり、日本でも初めは大黒の使者たる鼠を白頭に画いたであろう。先年スヴェン・ヘジン氏の『亜細亜貫通紀行』一八九八年板を出した時、この鼠崇拝の事あるべしと思い読むに見えず、大いに失望したが、その後スタイン氏がその辺を発掘して確かに鼠神の像を獲たと知らせくれた人あり。詳細は今に聞かぬ。金色の鼠は鼠類に金色に光るもの数種あり、それを祀ったであろうと、十二年前の『太陽』に書いて置いたが、あるいは鼠王を勿体付くるため祠僧が密かに金色に作り立てたかも知れぬ。
『譚海』一一に徳川将軍の世にオランダ人が持ち渡った奇物の内、五色鼠は白鼠を染めたる物なりといい、『香祖筆記』七に、鳥獣毛羽の奇なる物とて黄鳥、花馬、朱毛虎、山水豹とともに朱沙鼠を挙げ、タヴェルニエーの『印度紀行』一巻八章(ホール英訳)の注に、インドで犀を闘わすにその毛を諸色で彩った、今も象をさようにするとあり。惟うに麒麟や鳳凰、それから獅子を五采燦爛たるように和漢とも絵くは、最初外国から似寄った動物を染め飾り持ち来ったのに欺かれ、瑞兆として高く買ったでなかろうか。
日本でも上杉家の勇将新発田因幡守治長は、染月毛てふ名馬の、尾至って白きを、茜の汁で年来染むると、真紅の糸を乱し掛けたごとし。景勝の代に叛いて三年籠城して討ち死にの時もこの馬に乗ったという(『常山紀談』)。昨年予の方へ紺紫色の雀極めておとなしきを持ち来った人あり。いかにも瑞鳥でわが徳を感じて天が祥瑞を下したと悦び、餌を与うるも食わず、吐息ついて死んだから吟味すると、何か法螺を吹き損わせて笑いやらんと巧んで、白髪染剤で常の雀を染めその毒に中っておとなしく沈みいたと判った。
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「鼠に関する民俗と信念」は『十二支考〈下〉』 (岩波文庫)に所収