羊に関する民俗と伝説(その7)

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     五穀の神といえば欧州にも穀精てふ俗信今も多少残存する。ドイツのマンハールト夥しく材料を集めて研究した所に拠れば、穀物の命は穀物と別に存し、時として或る動物、時として男、もしくは女、また小児の形を現わすというのが穀精の信念だ。

    穀精が形を現わす動物は、牛、馬、犬、猫、豕、兎、鹿、綿羊、山羊、狐、鼠、鶏、天鵞その他なおあるべし。支那、日本の玄猪神、稲荷(いなり)神いずれも穀精にほかならぬ。

    フレザー曰く、何故穀精がかく様々の動物の形を現ずると信ぜらるるかとの問いに対(こた)えん、田畑に動物が来るを見て、原始人は穀草と動物の間に神秘な関係ありと察すべく、上世今のごとく田畑を取り囲わなんだ時には、諸般の動物自在にこれに入り行(ある)き得た。

    故にその頃は牛馬ごとき大きな物も、遠慮なく田畑に入り行(ある)いたから、穀精牛馬形を現わすとさえ信ずる処あり、禾(か)を苅る時、兎、雉等が苅り詰められて最後の一株まで残り匿(かく)るるが、それも苅られて来り出づるを、原始人が見て禾の精が、兎、雉等に化けて逃げ出すと認め、かかる処へ知らぬ人が来会す場合には、穀精が人に現じたと考え、さてこそ穀精あるいは人、あるいは諸動物の形して現(あら)わるてふ信念が起ったのだと。

    この説に対して予全く異論なきにあらざれど、今しばらくこれに従うて羊を穀精とした遺風の数例を挙げんに、スイスの一部では最後の稈(わら)一攫(つか)みを苅り取った人を麦の山羊と名付け、山羊然とその頸に鈴を付け、行列して伴れ行き酒で盛り潰(つぶ)す。

    スコットランドのスカイ島では、以前自分の麦を苅り終った百姓が、麦穂一束を、隣りのまだ苅り終らぬ百姓へ送り、その百姓苅り終る時またその隣りへその束を贈る。かくて村中ことごとく苅り終るとその一束が百姓中を廻りおわる。この一束を跛山羊(ちんばやぎ)と名づく。穀精が最後まで匿れいた一束を切られて一脚傷つけたてふ意らしい。

    仏国グレノーブル辺では麦苅り終る前に、花とリボンで飾った山羊を畑に放ち、苅り手競うてこれを捕う。誰かがこれを捕え得たら主婦これを執えおり、主公これを刎首(くびは)ね、その肉で苅入れ祝いの馳走をする。また肉の一片を※(「酉+奄」、第3水準1-92-87)しおづけして次年の苅入れ時まで保存し、その節他の一羊を殺して前年の※(「酉+奄」、第3水準1-92-87)肉を食うた跡へ入れ替えるフレザーの『金椏篇(ゴルズン・バウ)』一板二巻三章)。

    これらいずれも穀精山羊形で現わると信じた遺俗で、所により穀精と見立てた獣を春になって殺し、その血や骨を穀種と混じて豊穣を祈るあり、穀を連枷からさお※(「てへん+二点しんにょうの過」、第3水準1-84-93)はたいてしまうまで穀精納屋に匿れいるとか、仲冬百姓が新年の農事に取り掛からんと思う際、穀精再び現わるとか、山羊と猪の差こそあれ、わが邦の玄猪神に髣髴(ほうふつ)たる穀精の信念が今も欧州に存しいるので、かかる獣形の穀精が進んでデメテルごとき人形の農神となった事、狐は老翁形の稲荷大明神となったに同じ。

    (大正八年一月、『太陽』二五ノ一)

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    底本:「十二支考(下)」岩波文庫、岩波書店
       1994(平成6)年1月17日第1刷発行
    底本の親本:「南方熊楠全集 第一・二巻」乾元社
       1951(昭和26)年
    初出:「太陽 二五ノ一」
       1919(大正8)年1月
    入力:小林繁雄
    校正:門田裕志、仙酔ゑびす
    2009年3月31日作成
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    「羚」の「令」に代えて「賁」 16-5、17-9、18-6
    「虫+媼のつくり」 18-10
    「女+胃」 18-12、18-13


    「羊に関する民俗と伝説」は『十二支考〈下〉』 (岩波文庫)に所収

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