南方松枝(みなかた まつえ)
南方松枝(1892年〜1955年)。熊楠(1867~1941)の妻。
闘雞神社宮司田村宗造の四女。
明治39年(1906年)熊楠と結婚。この年、熊楠40歳、松枝28歳。
親友のディキンズ(ロンドン大学事務総長)からは結婚祝いにダイヤの指輪が贈られました。
結婚前に、松枝に会う口実として、熊楠は度々、猫に行水をつかわせてほしいと汚い猫を抱いて田村家を訪れ、松枝に猫を洗ってもらいました。
翌年(明治40年)熊弥出生、44年文枝出生。
熊楠の研究を助け、熊楠の死後も遺稿や標本を守りました。
拙妻、松枝
南方熊楠の手紙:山男について、神社合祀反対運動の開始、その他(現代語訳1)
山男のこと。拙妻の話に、山男は身体にコケが生えていて、山小屋に来たりして気味の悪いものである。そのようなときは鋸の目をヤスリで立てると(研ぐことである)、たちまち去る、と。その亡き父(当地の闘鶏社すなわち田辺権現〔『源平盛衰記』に見えた熊野別当が源平いずれに付くべきかと赤白の鶏を闘わせた社〕の前社司で、このような古い話を多く知っていた)の話とのことです。
南方熊楠の随筆:紀州俗伝(現代語訳13-1)
拙妻が幼いときいつもその祖母(25年前81歳で逝く)に聞いた、田辺の隠れん坊の鬼を決める詞、「隠れん坊しやく、ししはしめ食(く)て、雀は稲食て、チュッチュッチュッ大勢の中でお一人をようのいた、お二人をようのいた、チャンチャンヌクヌクお上がりなされよ」。
南方熊楠の随筆:人魚の話(現代語訳3)
予もそれから思い付いて、福路町を通る前に必ず泥を足底に塗って行く。これは栄枝得意の「むかし馴染みのはりわいサノサ」という格で、いくら呼んだって、女史は大の奇麗好きだから、足が少しでも汚れていては揚げてくれる気遣いなく、「飛んで行きたやはりわいサノサ」と挨拶して、虎口を逃れ帰宅すると、北の方松枝御前が、道理で昼寝の夢見が危なかったと、胸を撫で下ろす筋書きじゃ。