大三輪神社の神殿無かりしと云う事(現代語訳)
『考古学雑誌』第6巻5号「本邦上古の戦闘」268頁に大類博士は本邦古俗、神を森林に祀ったことを述べ、その著しい例として大和の大三輪神社が神殿を持たなかったことを挙げられている。このことは先年和歌山県選出代議士中村啓次郎氏の衆議院における「神社合祀」に関する演説でも述べられ、また明治45年3月の『扶桑誌』その他で白井光太郎博士も述べられ、信濃諏訪社また熊野地方の諸社に森すなわち神社で神殿を持たないものが多く、mannhardt, Der Brumkultus der Germanen und ihre Nachbarstamme, 1875, Passim; Gubernatis, La Mythologie des Plantes, 1878, tom. 246; Leonard, The Lower Niger and its Tribes, p. 288. などに載っている多くの例から推察しても、本邦の大昔の風俗はまことにこのようであったものだと知られる。
ただし大三輪神社が創立より徹頭徹尾神殿がなかったというのは誤った見解ではなかろうか。『古事記伝』巻二十三の意富美和之大神前の註で、
さてこの御社は今世は御殿はなくしてただ山に向かって拝み奉るのはいかなるわけであろうか。古えは御殿があったと見えて、すなわち『日本書紀』のこの御代(崇神天皇)の8年の大御歌にも「みあのとのゝあさとにもおしひらかねみわのとのおと」と詠じなさり、「神宮の門を開く云々」など見える。
また『日本紀略』に「長保2年7月13日二十一社に奉幣、すると大神(おおみわ)社の宝殿が鳴動した、有□別」と見え、『蒙童抄』に「三輪明神の社に詣ってこの女に逢えるようにと祈り申し上げると、その社の御戸を押し開きお見えになる」なども見える。
と宣長はいっている。