粘菌の神秘について(現代語訳1)

粘菌の神秘について(現代語訳)

  • 1 粘菌,鬼市
  • 2 古蹟の保存
  • 3 民俗学
  • 4 社寺の保存

  • 1 粘菌、鬼市

     

    粘菌
    粘菌/ 南方熊楠のキャラメル箱

     拝啓。6月10日出芳翰および新聞一葉、まさに拝受、お礼申し上げます。小生は目下、粘菌と申すものの標本を英国へ送る最中で、すこぶるがしなければならない事が多いので、おおよそのところで一筆お返事申し上げます。

     粘菌は、動植物いずれともつかぬ奇態の生物で、英国のランカスター教授などは、この物が最初に他の星界よりこの地に墜ちて来て動植物の元となったのだろう、と申す。生死の現象、霊魂などのことに関し、小生14,5年来この物を研究しております。

     従来日本より(『帝国大学目録』による)18種しか見つかっていなかったのを、ただ今96種まで小生が見つけ出し、英国にて3色写真版で大図譜出版(大英博物館蔵版、リスター卿の娘リスター女史が亡父の遺業としてこれを編する。日本の部は主として小生の標本と小生の記載を用い編入する)中にて、小生が見つけ出した新種の着色版はすでに出来上がったが、アフリカ、南米等の品について異論渋滞し3年かかっていまだ出来上がらない。この次はバーミンガム大学教授ウェストと小生と『日本淡水藻譜』を作り出すつもりで日夜勉めているが、これは今後10年ばかりかからなければ完成の見込みはない。

     山男のことについてご注意を惹いておくのは鬼市のことです。小生が那智山にあった日、このことを調べ英国の雑誌へ出したことがある。鬼市は『五雑俎』に出ており、支那にはいろいろとあると見え、分類して出しております。

     肥前国に昨今もこのことがある所があるとのこと。那智にも行者(実加賀(じつかが)行者といって明治13年頃滝に投じて死んだ者)の墓を祭るのに、線香を墓前に置いてある。参る者は銭を投じて線香を取り祭る。(肥前のは、路傍に果実を並べ、ザルを置く。果実を欲する者は、ザルに相当の銭を入れ、果実を取り食うのだ。)

    貴下のいずれかの著に、神より物を借りることがあったと記憶します。(支那にはこのことが多いように『五雑俎』に見える。)今もスマトラなどで、交易すべき物を林の中に置き去れば、蛮民が来てその物を取り、代価相当の物を置き去る風習が多い。つまり蛮民が他国民の気に触れれば病むと思うことによるのだ。(蛮民が他国の人に会えばたちまち病み、はなはだしい場合はその人種が絶滅するのは事実である。)貴下がもしこの鬼市のことを調べようと思うのならば、ご一報あれば小生が知っただけ写し申し上げましょう。英国には6年ばかり前に'Silent Trade'(黙市)と題した一書が出申しました。

     貴著『遠野物語』に見える山姥が宝物を人が取るのに任すということ、また『醒睡笑』にも似たことがある。これらは古わが国でも鬼市が行われた遺風の話ではないかと存ぜられます。

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    「粘菌の神秘について」は『南方熊楠コレクション〈第2巻〉南方民俗学』 (河出文庫) 所収。

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