邪視について
本誌〔『民俗学』〕1巻2号92頁〔「支那における『邪視』の俗信について」〕に石田君がセーリグマン氏の書いた物より引用された一条を読んで、最近の南支那でも、昔の東晋時代と同じく邪視を悪眼と呼ぶことを知ることができた。過ぐる大正6年2月の『太陽』23巻2号154〜155頁〔「蛇に関する民俗と伝説」5節〕に、次のように書いておいた。
邪視英語でイーヴル・アイ、伊語でマロキオ、梵語でクドルシュチス。明治42年5月の『東京人類学会雑誌』へ、予はその事を長く書き邪視と訳した。その後一切経を調べると、『四分律蔵』に邪眼、『玉耶経』に邪盻(じゃけい)、『増一阿含』および『法華経』普門品(ぼん)また『大宝積経』また『大乗宝要義論』に悪眼、『雑宝蔵経』と『僧護経』と『菩薩処胎経』に見毒、『蘇婆呼童子経』に眼毒とあるが、邪視という字も『普賢行願品(ふげんぎょうがんぼん)』二八に出でおり、また一番よいようでもあり、柳田氏その他も用いられているから、手前味噌ながら邪視と定めおく。もっとも本統の邪視のほかに、インドでナザールというのがあって、悪念を以てせず、何の気もなく、もしくは賞讃して人や物を眺めても、眺められた者が害を受けるので、予これを視害と訳しておいたがこれは経文に拠って見毒と決めるのがよかろう。
ここでいった、邪視の字が出ている『普賢行願品』は、唐の徳宗の貞元中、
そして石田君が『晋書』から引用された衛(えいかい)の死に様は、『南方随筆』に載せた裏辻公風と同じくいわゆる見毒(ナザール)に当たったらしい。小児を打ち続けて発病させるのと、撫で過ぎて疳(かん)
を起させるのとが違うほど、邪視と違う。
また石田君はデンニス氏の書から、支那で妊婦やその夫は、胎児とともに四眼をもつ者として、邪視の能力者として、一般から嫌忌さるれるということを引用された。
『琅邪代酔編』巻二に「後漢の時、季冬に臘ろうに先だつ一日、大いに 儺(おにやらい)をする。これを逐疫という、云々、方相氏(ほうそうし)は黄金の四目あり、熊皮をかぶり、玄裳朱衣して戈(ほこ)を手に持ち楯を揚げる。十二獣は毛角を衣(き)るあり、中黄門これを行う、冗縦僕財これを将(もち)いて以て悪鬼を禁中に逐う、云々。その時中黄門が、悪鬼輩速やかに逃げ去らずば、甲作より騰眼に至る十二神が食ってしまうぞと唱え、方相と十二獣との舞をなして、三度呼ばわり廻り、松明を持って疫を逐い端門より出す云々」とある。
『日本百科辞典』巻七、追儺(ついな)の条でも明示された通り、当夜方相氏は戈で盾をたたき隅々から疫鬼を駈り出し、そして十二獣を従えて鬼輩を逐い出すのだ。
1902年頃の『ネイチャー』に、インドにある英人ジー・イー・ピール氏が投稿して、犬の両眼の上に黄赤い眼のような両点あるものは、眠っていても眼を見開いているよう見えるから、野獣がはなはだこれを恐れて近付かないと述べた。
そんな事からでもあろうか、パーシー人は、人が死ぬと右様の犬(本邦の俗で四つの眼と呼ぶ)を連れて来て、その死体を見せ、それで、もう悪鬼が近付かないといって安心するという。米国で出たハムポルト文庫所収の何かの書に出ていたが、今この宅にないから書名を挙げることができない。しかしパーシー人からも親しく聴いたことだ。
方相の四目もそんな理由で、いわば二つでさえ怖ろしい金の眼を二倍持つから、鬼が極めて方相に恐れるのだ。方相が十二神を従えて疫を追う姿は、『日本百科大辞典』の挿画で見ることができる。しかしながら後世、方相の形がいたって憎らしげなので、方相を疫鬼と間違えたとみえ、安政またはその前に出た『三世相大雑書』などに、官人が弓矢で方相を追う様子を図したのをしばしば見た。ただ今拙宅の長屋に住む人もそんな本を一部持っているが、題号がなくなっているので書名を知りがたい。
思うにデンニス氏が記したところも、最初方相が四眼で悪鬼を睨みおどしたことが、件(くだん)の『大雑書』の誤図と等しく、いつの間にか謬伝されて、方相が四眼で人に邪視を加えると信ぜられ、妊婦やその夫や胎児も、他の理由から人に忌まれるに乗じて、このような夫婦や胎児までも四眼があって、邪視を人に及ぼすと言われるようになったものか。