易の占いして金取り出だしたること

南方熊楠の随筆

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     「易の占いしてこがね取り出だしたること」と題して『宇治拾遺』に出た話は、旅人が大きな荒れ家に宿を求むると、内には女一人しかないらしく、快くとめてくれた。夜あけて物食いに出掛けると、かの女が君は出で行くわけにゆかぬ、留まれ、と言った。

    何故と問うと、わがこがねを千両君に貸しあるから返したのち出でゆけ、と言った。旅人の従者どもからかい半分、きっとそうだろうとまぜ返すを、旅人は真面目に止まって占いを立て、かの女を呼び出し、汝の親は易の占いをしたかと尋ねると、何か知らねど今君がしたようなことをした、と答う。

    そうだろう、さて何ごとで予が千両負いおると言うかと問うに、親が死にざまに多少の物をのこし置き、十年後の某の月に旅人が宿るはず、その人はわれに千両負うた者だ、その人にその金を乞えと教えて終わった、その後親の遺した物を売り食いして過ごすに、もはや売る物も尽きたから、親が予言した月日を待っておったところ、ちょうどその日に君が泊ったから千両を求むる、と言った。

    旅人、金のことは真実だと言って、女を片隅につれてゆき、とあるから、また例の千両の金の代りに鉄の棒を一本ぐっと進呈などとくるところと気を廻す読者も多かろうが、そんなことにあらず、一つの柱を叩かせると中が空虚らしく響く、この内に望みの金がある、小切りに出して使いたまえと示して旅人は去った。

    全くこの女の父は易占の名人で、千両という大金を残らず与えて死んだら、あるに任せて若い男などにドックドックとやり続けに出してしまうは必定と判じ、十年間やっと暮らし得るだけの物を与えてこの家を失わず守らしめ、今日を待って今日泊るべき旅人を責めしめたので、この旅人も易占の名人ゆえ、千金を求められると、即座にこの家のどこにその金をおさめ隠しあるを占い知って娘に告げくれるは必定と、十年後のことを見通して父が娘に遺金したのだという。

     熊楠いわく、この話はもと支那の話を日本へ移したのだ。『太平広記』二一六に『国史補遺』を引いて、晋の隗※(「火+召」、第3水準1-87-38)、易を善くす、臨終に妻子に告げたは、後来大いに荒るるといえども宅を売るなかれ、今より五年して、詔使の※(「龍/共」、第3水準1-94-87)氏がここへくるはず、この人われに借金あり、予が書き付けおく板を証拠として債促さいそくせよ、と言って死んだ。五年たつと、果たして※(「龍/共」、第3水準1-94-87)氏が来た。後家が亡夫の書き付けた板を示して返金を促すと、※(「龍/共」、第3水準1-94-87)は呆れたが、しばらく思索の末、を取って占い、われは隗生に借金した覚えなし、隗生自分の金を隠しおき、わが易占を善くするを知って、われがここに来るをってその在り処を妻子に告げしむるよう謀らい置いたのだ、その金高は五百斤で、青瓷に盛って堂屋の壁を去る一丈、地に入ること九尺の処に埋めあるはず、と教えた。よって妻がそこを掘って、果たして金を得たそうだ。

     やや似た話はインドにもあり。
     『大般涅槃経』七に、「善男子よ、かくのごとし。貧しき女人の舎内に多くの真金の蔵あり。家人大小とも知るものあるなし。時に異人あり、よく方便を知って貧しき女人に語る、われ今汝を雇わん、汝わがために草穢ざっそう耘除くさぎるべし、と。女すなわち答えていわく、われ能わざるなり、汝もしよく我子われの金蔵を示さば、然るのちにすなわちまさに速やかに汝のためにすべし、と。この人またいわく、われ方便を知る、よく汝子なんじに示さん、と。

    女人答えていわく、わが家大小ともなおみずから知らず、いわんや汝よく知らんや、と。この人またいわく、われ今つまびらかにくす、と。女人答えていわく、われまた見んと欲す、あわせてわれに示すべし、と。この人すなわちその家において、真金の蔵を掘り出だす。女人見おわって、心に歓喜を生じ、奇特の想いを生じて、この人をたっとび仰ぐ」とある。

     『観仏三昧海経』一〇に、
    復次また、阿難のいう。譬うれば長者、財産多饒ゆたかにして、諸子息なく、ただ一女あるのみ。この時、長者百歳を過ぎ、みずから朽邁して死なんとすること久しからざるを知る。わがこの財宝は、男児なき故に、財はまさに王に属すべし、と。

    かかる思惟を作し、その女子むすめを喚び、ひそかにこれに告げていわく、われ今宝あり、宝中の上なるものはまさにもって汝に遺すべし、汝この宝を得れば密蔵すること堅からしめ、王に知らしむることなかれ、と。むすめ、父の勅を受け、摩尼まに珠および諸珍宝を持って、これを糞穢に蔵す。室家大小とも、みなまた知らず。

    世の飢饉にい、女の夫、妻に告ぐらく、わが家貧窮して衣食にくるしむ、汝はよそへ行き自活の処を求むべし、と。妻、夫にもうしていわく、わが父の長者、命終に臨める時、宝をもってわれに賜い、今某処にあり、君これを取るべし、と。時に夫掘り取って、大いに珍宝と如意珠を

    如意珠を持って焼香礼拝し、まず願を発していわく、わがために食をらせよ、と。語に随ってすなわち百味の飲食おんじきを雨らす。かくのごとく種々のもの意に随って宝を得。時に夫、得おわって、その妻に告げていわく、なんじは天女のわれに宝を賜うがごとし、汝この宝を蔵せるをわれなお知らず、いわんやまた他人においておや、と」。

    これは、死んでゆく父が娘の賢きを知り抜き、隠さずに宝を譲ったのを、娘がまさかの時に用いんとて、よく隠し置いたので、『藩翰譜』に出でた山内一豊の妻などと似た行いだ。

     これら仏教譚よりもずっと『宇治拾遺』や『国史補遺』の談に近いのは袁天綱の伝にある。皆人の知る通り、天綱は唐一代の占術の達人で、よく前後五百年のことを知った。その妻が後世子孫の栄枯を占い言えと勧めたので、占うと十代めの孫はきわめて貧乏と判った。妻がそれを救う法ありやと問うたから、また占うて、某の年月日に本府の太守[#「太守」は底本では「大守」]うつばりが落つる厄にあうべしと知った。

    そこで、その旨を書いて赤い箱に入れ家廟中に封じ、代々相伝えて十代めの孫に至り、某年月日にこの箱を太守に送り、必ず太守自身堂より下ってみずからこれを受けしめよ、と書き付け置いた。さて十代めの孫に至り果たして大貧乏で、祖先の言を思い、その年月日を待ってかの箱を府堂の階下に送り、ぜひ太守が自身下って受けんことを求めた。

    太守身を起こし階を下ると同時に、堂上の朽ちた梁が落ちて、太守が今まで占めおった公座を砕いた。太守は箱を受け取り開きみると、一帖あり、汝わが十世の孫の貧を救え、われ汝の堕梁の厄を救うと書き付けたを見て、太守は活命の恩を拝謝し、袁天綱の十代めの孫を薦めて官途に就かせ、活計を得せしめたという(『『淵鑑類函』三二三』)。

     



    底本:「日本の名随筆82 占」作品社
       1989(平成元)年8月25日第1刷発行
       1997(平成9)年5月20日第6刷発行
    底本の親本:「南方熊楠文集 第二巻」平凡社
       1979(昭和54)年5月
    入力:前野さん
    校正:門田裕志
    2002年12月4日作成
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