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祭礼の笠鉾などに鶏が太鼓に留まった像を出し諫鼓鳥と称す。『塵添嚢鈔』九に「カンコ苔深しなんど申すは何事ぞ、諫鼓をば諫めの鼓と読む。喩えば唐の堯帝政を正しくせんがために、悪しき政あればこの鼓を撃ちて諫め申せと定め置かれしなり。中略、何たる卑民の訴えも不達という事なかりしなり」、『連珠合璧』下、鼓とあれば諫め、苔深し。『鬻子』に禹の天下を治むるや五声を以て聴く。門に鐘鼓鐸磬を懸け、以て四方の士を待つ。銘に曰く、寡人に教うるに事を以てする者は鐸を振え、云々。道を以てする者は鼓を撃てと。『淵鑑類函』五二に〈堯誹謗の木を設け、舜招諫の鼓を懸く〉とあれど出処を示さず。
熊楠色々と捜すと『呂覧』自知篇に〈堯欲諫の鼓あり、舜誹謗の木あり〉と出たが一番古い。余り善政行き届いて諫鼓の必用なく、苔深く蒸したと太平の状を述べたとまでは察するが、もっとも古くこの成語を何に載せたかを知らぬ。白居易作、敢諫鼓の賦あり。『包公寄案』には屈鼓とした。冤屈を訴うる義だ。
『類聚名物考』二八五に土御門大臣「君が代は諫めの鼓鳥狎れて、風さへ枝を鳴らさゞりけり」、三二〇に「今の世に禁庭八月の燈籠の作り物等に鼓上に鶏あるを出す、諫鼓苔深くして鳥驚かずの意より出づと、云々、此方の上世は専ら唐制を移されたれば、恐らくは金鶏の作り物にやあるべき」とありて、封演の『聞見記』を引き、唐朝大赦ある時、闕下に黄金の首ある鶏を高橦の下に立て、宮城門の左に鼓を置き、囚徒至るを見てこれを打ち、赦を宣えおわりて金鶏を除く、この事魏晋已前聞えず、後魏または呂光より始まるという。
北斉赦あるごとに金鶏を閭門に立てる事三日でやむ。万人競うて金鶏柱下の土を少しく取り佩ぶれば、日々利ありというに数日間ついに坑を成した。星占書に天鶏星動けば必ず赦ありと見えるからの事だと述べ、また万歳元年嵩山に封じた時、大樹杪に金鶏を置いた由を記す。
しかし支那に諫鼓また屈鼓が実在した証は外国人の紀行に存す。例せば一六七六年マドリッド板、ナヴァレッテの『支那帝国誌』一二頁にいわく、すべて支那の裁判所はその高下に随って大小の太鼓を備え、訟あるごとにこれを打つ、南京の法庁にある者、殊に大きく象皮一枚を張り、大なる棒を高く荒縄で釣るしてこれを打つと。
レーノー仏訳、九世紀のアラビア人、ソリマンの『支那記』四一頁にいわく、支那には市ごとに知事の頭の上に鐘を釣るしてダラー(銅鑼?)と名づく、それに付けた緒は街まで引っ張り置き、誰でもこれを引いて鳴らすを得、その緒長きは一パラサンに達すとある。これはペルシャの尺度で三英マイル半から四英マイル、時代に依って変る。ちょっと緒に触れば鐘が鳴り出すようにしあって、不正の裁判を受けた者、この緒を動かし鐘を知事の頭上で鳴らすと、知事躬らその冤訴を聴き公平の処分をする。かかる鐘を諸地方皆備えいると。
レーノー注に、十二世紀のアラビア人エドリシの『世界探究記』に拠れば、昔北京の帝の宮殿近く太鼓の間あり。諸官兵士日夜これを警衛す、裁判不服の者と裁判を得ざる者、その太鼓を鳴らせば法官躊躇せずその愁訴を聴き公平に判決す。この制今は行われずと。ユールの『カタイおよびその行路』巻一序論一〇六頁に、シャムの先王この制を立てしもその役務の小姓ら尽力して廃止したとある。
日本にも『書紀』二五、大化改新の際朝廷に鐘を懸け、匱を設け、憂え諫むる人をして表を匱に納れしめ、それでも聴き採られざる時は憂訴の人、鐘を撞くべしと詔あり。その文を見ると、『管子』に見えた禹建鼓を朝に立て、訊望に備えたを倣うたらしい。久米博士の『日本古代史』八四一頁に、この鐘匱は新令実施が良民資産に直接の関係あるを以て、国司等の専断収賂あるを慮りこれを察知せんため一時権宜に設けられたるなり、古書の諫鼓、誹謗木など形式的の物と看做すは大なる誤解なりとあれど、古支那の諫鼓、撃鐘が冤を訴うるに実用あったは、当時支那に遊んで目撃した外人の留書で判る事上述のごとく、決して形式的でなかった。
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