田原藤太竜宮入りの話(その25)

田原藤太竜宮入りの話インデックス

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  • 竜の起原と発達
  • 竜の起原と発達(続き)
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  • (竜の起原と発達2)

     まずクック氏は、蛇類は建築物や著しき廃址に寓し、いけかべ周囲ぐるりい、不思議に地下へ消え去るので、鳥獣と別段に気味悪く人の注意をいた。その滑り行くさま河の曲れるに似、その尾をむの状大河が世界をめぐれるごとく、辛抱強く物を見詰め守り、餌たるべき動物を魅入みいれて動かざらしめ、ある種は飼いらしやすく、ある種は大毒ありて人畜を即死せしめ、ある物を襲うに電と迅さを争うなど、つとに太古の人を感ぜしめたは必定なれば、蛇類を馴らしもてあそんだ人が衆を驚かし、敬われたるも怪しむに足らず。

    あるいは蛇の命長く、定時に皮を脱ぎかえるを見て、霊魂不死と復活を信ずるに及んだ民もあるべしと述べて、竜の諸譚は蛇を畏敬するより起ったように竜と蛇を混同してその崇拝の様子や種別を詳説されたが、竜と蛇の差別や、どんな順序で蛇てふ観念が、竜てふ想像に変じたか、一言もしおらぬ。

     上に述べた通り、古エジプトや西アジアや古欧州の竜は、あるいは無足の大蛇、あるいは四足二翼のものだったが、中世より二足二翼のもの多く、またれに無足有角のものもある。インドの那伽ナーガを古来支那で竜と訳したが、インドの古伝に、那伽は人面蛇尾で帽蛇コブラを戴き、荘厳尽くせる地下の竜宮バタラに住み、和修吉ヴァスキを諸那伽の王とす。

    これは仏経に多頭竜王と訳したもので、梵天の孫迦葉波カーシャバの子という。日本はこの頃ようやく輸入されたようだが、セイロン、ビルマ等、小乗仏教国に釈迦像の後に帽蛇が喉をふくらして立ったのが極めて多い。

    四分律蔵しぶりつぞう』に、仏※(「馬+鄰のへん」、第3水準1-94-19)ぶんりん水辺で七日坐禅した時、絶えず大風雨あり、〈文※(「馬+鄰のへん」、第3水準1-94-19)竜王自らその宮を出で、身を以て仏をめぐる、仏の上をおおいて仏にもうして言わく、寒からず熱からずや、飄日のためにさらされず、蚊虻のために触※(「女+堯」、第4水準2-5-82)せらるるところとならずや〉、風雨やんでかの竜一年少梵志ぼんしに化し、仏を拝し法に帰した、これ畜生が仏法に入ったはじめだと見ゆ。

     帽蛇コブラ(第四図)は誰も知るごとく南アジアからインド洋島に広く産する蛇で、身長六フィート周囲六インチに達し、牙に大毒あるもむやみに人を噛まず、頭に近き肚骨あばらぼね特に長く、餌をねらいまた笛声を聴く時、それを拡げると喉が団扇うちわのようにふくれ、惣身そうみの三分一をててうそぶく、その状極めて畏敬すべきところからインド人古来これを神とし、今も卑民のほかこれを殺さず。

    卑民これを殺さば必ず礼を以て火葬し、そのやむをえざるに出でしを陳謝いいわけす。一八九六年版、クルックの『北印度俗間宗教および民俗誌ゼ・ポピュラル・レリジョン・エンド・フォークロール・オブ・ノルザーン・インジア』二巻一二二頁にれば、その頃西北諸州のみに、那伽ナーガすなわち帽蛇崇拝徒二万五千人もあった。

    昔アリア種がインドに攻め入った時、那伽種この辺に栄え、帽蛇を族霊トテムとしてその子孫と称しいた。すなわち竜種と漢訳された民族で、ついにアリア人に服して劣等部落となった。くだんの畜生中第一に仏法に帰依した竜王とは、この竜種の酋長をしたであろう。俗伝にはかの時ぶつ竜王が己れをおおいくれたをよろこび、礼に何を遣ろうかと問うと、われら竜族は常に金翅鳥こんじちょうに食わるるから、以後食われぬようにと答え、仏すなわち彼の背に印を付けたので、今に帽蛇にその印紋ある奴は、鳥類に食われぬという。

    かく那伽はもと帽蛇の事なるに、仏教入った頃の支那人は帽蛇の何物たるを解せず、その霊異ふしぎにして多人に崇拝さるる宛然さながら支那の竜同然なるより、他の蛇輩と別たんとて、これを竜と訳したらしい。ただしインドにおいても那伽を霊異とするより、追々蛇以外の動物の事相をも附け加え、上に引いた『大孔雀呪王経』に言わるる通り、二足四足多足等支那等の竜に近いものを生じたが、今に至るまで本統の那伽は依然帽蛇で通って居る。支那に至っては、上古より竜蛇の区別まずは最も劃然かくぜんたり。後世日本同様異常の蛇を竜とせる記事多きも、それは古伝の竜らしき物実在せぬよりの牽強こじつけだ。
    「第4図 帽蛇」のキャプション付きの図

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    「田原藤太竜宮入りの話」は『十二支考〈上〉』 (岩波文庫)に所収

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