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東洋には『淵鑑類函』四三六に、康定中侍禁李貴西辺の塞主たり、その妻賊のためにり去らる。家中の一白犬すこぶるよく馴る。妻これに向って我聞く、犬の白きは前世人たりしと、汝能く我を送り帰さんかと、犬俯仰して命を聴くごとし、すなわち糧を包みこれに随う。警あればすなわち引きて草間に伏し、渇すればすなわち身を濡らして返り飲ましむ。およそ六、七日で賊境を出で、その夫恙なきに会う。朝廷崇信県君に封ずとあるは犬が封号を得たらしい。
また唐の貞元中大理評事韓生の駿馬が、毎日櫪中で汗かき喘ぐ事遠方へ行きて疲れ極まるごとき故、圉卒が怪しんで廐舎に臥し窺うと、韓生が飼った黒犬が来って吼え躍り、俄に衣冠甚だ黒い大男に化け、その馬に乗って高い垣を躍り越えて去った。次いで還り来って廐に入り、鞍を解いてまた吼え躍るとたちまち犬になった。
圉人驚異したが敢えて洩らさず、その後また事あったので、雨後のこと故圉人が馬の足跡をつけ行くと、南方十余里の一古墓の前まで足跡あり。因って茅の小屋を結び帰り、夕方にその内に入りて伺うと黒衣の人果して来り、馬を樹に繋ぎ墓内に入り、数輩と面白く笑談した。
暫くして黒衣の人を褐衣の人が送り出で、汝の主家の名簿はと問うと、絹を擣く石の下に置いたから安心せよという。褐衣の人軽々しく洩らすなかれ、洩れたらわれら全からじといい、また韓氏の穉童は名ありやと問うと、いまだ名付かぬ、付いたら名簿へ編入しようという、褐衣の人、汝、明晩また来り笑語すべしといって去った。
圉人帰って韓生に告ぐると、韓生肉を以てその犬を誘い寄せ縄で括り、絹を擣つ石の下を捜るに果してその家妻子以下の名簿一軸あり、生まれて一月にしかならぬ子の名はなし、韓生驚いて犬を鞭ち殺し、その肉を煮て家僮に食わせ、近所の者千余人に弓矢を帯びしめ古墓を発くと、毛色皆異なる犬数疋出たので殺し尽して帰ったとある。ハンガリー人も黒犬に斑犬を魔形とし、白犬は吉祥で発狂せぬと信ずる(グベルナチスの『動物譚原』二の三三頁注)。
『日本紀』七に、日本武尊信濃の山中で山神の化けた白鹿に苦しめられたが、蒜を以てこれを殺し、道を失うて困しむ時白犬に導かれて美濃に出づ、とあれば、同じ白でも鹿は悪く犬は善いと見える。しかるに巻十四に、播磨の賊文石小麿馬の大きさの白犬に化けて官軍に抗したのを春日の小野臣大樹が斬りおわると、もとの小麿となったとあれば、白犬も吉兆と限らなんだのだ。
後世に至っては、白犬は多く仏縁ありまた吉祥のものとされて居る。例せば道長公が道満法師に詛われた時、白犬が吠えたり引いたりして公が厭物を埋めた地を踏むを止めた(『東斎随筆』鳥獣類)。関山派の長老の夢に久しく飼った白犬告げて、われ門前の者の子に生まれるから弟子にされよと、やがてそのごとく生まれ、貧女故捨てんとするを乞うて弟子としたが、長じて正直者ながら経を誦む事鈍かった(『因果物語』中)。
和泉堺のある寺の白犬勤行の時堂の縁に来て平伏したが餅を咽に詰めて死し、夢に念仏の功力で門番人の子に生まると告げ果して生まる。和尚夢を告げて出家さするに一を聞いて十を知ったが生来餅を嫌う、因って白犬と呼ばるるを忌み、十三の時強いて餅に向うたがたちまち座を外して見えずと(『諸国里人談』五)。
『中阿含経』に白狗が前世にわが児たりし者の家に生まれ、先身の時蔵し置いた財宝を掘り出す話あり。その他類似の談が仏典に多いから、伝えて日本にもそんな物語が輩出したのだ。ただし『今昔物語』十一や『弘法大師行化記』に、大師初めて南山に向った時、二黒犬を随えた猟人から唐で擲げた三鈷の行き先を教えられたとあり、この黒犬が大師を嚮導したらしいから、本邦では黒犬を凶物とせなんだらしい。
白犬と明記されぬが、犬が人に生まれた譚は仏経に多い。『賢愚因縁経』五に、仏が給孤独園にあった時、園中五百の乞児あり、仏に出家を乞うて許され、すなわち無漏の羅漢となる、祇陀太子、仏と衆僧を請じてこれら乞食上りの比丘を請せず、仏乞食上りの輩に向い太子汝らを請せず、汝ら鬱単越洲に往き自然成熟の粳米を取って食えと。鬱単越(梵語ウッタラクルの音訳)は天下勝の義でまた勝処また勝生と訳し、アイテルの『梵漢語彙』には高上と訳しある。須弥四洲のうち最も勝れて結構な処の意で、もと婆羅門教で諸神諸聖の住処をかく名づけたのが仏教に移ったらしい。
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