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欧州で、死人の墓碑に犬の像を具する例甚だ多いが、必ずしも皆その人に忠誠を尽したものとは限らぬ。他の諸禽獣の例も多くそれぞれ道義上の意味を表わしたもので、例せば獅は勇猛、犬は忠誠の印しだ。またその人の家紋そのまま禽獣を墓碑に添えたのも多い(同誌十一輯三巻三一〇頁参照)。かかる表示から生じた忠犬の話も少なくあるまい。
わが邦にも南部家の鶴など実際その家に奇瑞あった禽獣を紋としたものも少なからぬが、また『見聞諸家紋』に見えた諏訪氏の獅子のごとく、かつてわが邦に実在せぬものを用いたのもある。紋章の多くはトテムの信念に起る。犬をトテムとしたもの、欧州に少なからず。アイルランドの名門メクチュレーンはクレーンの犬の意味で、この一族は犬肉を喫えば死んだという(一九〇八年版ゴムの『歴史科学としての俚俗学』二八六頁)。
ただし犬をトテムと奉じたは犬の忠誠に感じての例多かったはずなれば、忠犬の話は深い基礎あった事言うを俟たず。中世武士が軍陣に犬とともに臥して寇敵を予防する風盛んに、その後婦女が犬を寵愛する事普通になりしより、犬が殊に墓碑に刻まるるに至ったので、スペインブールホスの大寺にあるメンシア・デ・メンドザ女の葬所なる臥像はその裙に狆を巻き付かせある。これは何たる奇功も建てずただこの貴婦が特に狆好きだった印しばかりだ。
漢の淮南王劉安、神仙八人とともに薬を服して天に上った時、その余りを舐めた犬もことごとく昇天し、は天上に鳴き、犬は雲中に吠えた(『神仙伝』四)。その他犬が仙人に従って上天した例多く、韋善俊は唐の武后の時京兆の人なり。長斎して道法を奉ず、かつて黒犬を携え烏竜と名づく、世謂いて薬王と為すという。韓忠献臆すらく、年六、七歳の時病甚だし、たちまち口を張りて服薬する状のごとくして曰く、道士あり、犬を牽き薬を以て我に飼う、俄に汗して愈ゆと、因って像を書いてこれを祀ると(『琅代酔編』五)。これも主人に伴れて黒犬も祀られたらしい。
英国のジョー・ミラーは、一六八四年生まれ一七三八年歿した役者で滑稽に富んだ。一七三九年ジョン・モットレイその奇言警句に古今の笑話を加え、『ジョー・ミラー滑稽集』一名『頓智家必携』を著わした。それより古臭い滑稽談を単に、ジョー・ミラーと通称する事、わが国の曾呂利咄しのごとし。ロンドンのウェストミンスター・アッベイは、熊楠知人で詩名兼ねて濫行の聞え高かったジーン・ハーフッドその坊に棲み、毎度飲ませてもらいに往った。英国に光彩を添えた文武の偉人をこの寺に葬り、その像を立てた。その間を夕方歩むと、真に欽仰畏敬の念を生じた。
件の『必携』十頁に、ある卑人その家名に誇ってわが父の像彼処に立てられたというので念入れて尋ぬると、タイン侯乗車の像が立てられ、わが父は馬車の御者だったから従ってその像もあるのだと答えたので、聞いた者が呆れたと見ゆ。あまたの犬どもが主人の碑にその像を刻まるるもまずはこの格で、ことごとく格別の忠勤を尽したでもなく、若い時、桐野利秋に囲われた妾とか、乃木将軍にツリ銭を貰うた草鞋売りとか、喋々すると同様、卑劣めいた咄だ。
かの薬王が烏竜てふ黒犬を従え歩いたに付けて言うは、欧州では、古く魔は黒犬や老猫形を現ずると信じ、ウィエルスは魔が人を犯す時、黒犬の腸と血をその室の壁に塗ればたちまち去ってまた来らずと言った。これは、血蝮に咬まれた者蝮の肉を創に付くれば速やかに治すというごとく、毒を以て毒を退治るのだ。
このウィエルスが師事したドイツのアグリッパは、十六世紀に名高い医者兼哲学者で著述も多かったが、所説が時世に違い容れられず、一汎に魔法家と擯斥されて陋巷に窮死した。常に一黒犬を従えたがこれが魔の化けたので、この人死に臨み呪法で禁じ置いた黒犬の頸環を解き、去れ、汝、わが一生を過たしめたと言うと、犬脱走して河に入りて再び現われなんだとも、魔が、汝、死んでも必ず蘇らせてやると誓うたので自殺すると、魔、嘲って取り合わなんだので死に切れたともいう。
ヴェニス人プラガジニは有名な方士で、魔の力を借りて黄金を作り出すと誇り、一五九五年バイエルンで刑せらる。同時にその常に伴うた二黒犬は魔が化けたのだとて、犬を人同様裁判の上衆民の見る所で弩を以て射殺した(コラン・ド・プランシー『妖怪事彙』)。
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