馬に関する民俗と伝説(その26)

馬に関する民俗と伝説インデックス

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  • 民俗(1)
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  • (付)白馬節会について

  • (性質1)


         性質

     同書にまたいわく、欧州では、有史前新石器時代に野馬多く、その遺骨おびただしく、当時の人の遺物とともに残れるを見ると、当時の人は専ら野馬猟を事とし、その肉を食用したので、野馬の遺骨を、当時の人が骨や馴鹿トナカイ角に彫り付けた野馬の図から推して、その野馬は小柄で身重く、※(「髟/宗」、第4水準2-93-22)たてがみと尾あらくて、近時全滅した南ロシアのタルパンてふ野馬や、現存蒙古の野小馬ワイルド・ポニーよく似いたと知る。

    しかして有史前の欧人はその野馬をいもした。さて今日に至っては、馬は人手で諸方へ行き渡り、地球上人の住み得る所ほとんど皆馬あり。飼養と媾合こうごうと選種の次第で、雑多の別態異種を生ぜしめた。またアメリカと濠州には、最初欧人がれ来った馬がけ出て野生となり、大群をなして未墾の曠野を横行し居ると。

     日本の馬の事、貝原篤信の『大和本草』巻十六にいわく、『旧事記』に保食神うけもちのかみの目に、馬牛のれる事をいえり、『日本紀』神代巻に、駮駒ぶちこまをいえり、これ神代より馬あり、二条良基の『嵯峨野物語』に、馬は昔唐国より渡りし時、耳の獣という、すべて稀なりしかば、帝王の御気色よき大臣公卿のほかは乗る事なし、されば良家と書いては、馬人うまびとむといえり、篤信いわく、馬は神代よりありて、後代に唐より良馬渡りしにやと。

    『後漢書』東夷列伝に、〈韓の東南大海中にあり云々、その地おおむね会稽かいけい東冶とうやの東にあり、朱崖※(「にんべん+擔のつくり」、第3水準1-14-44)たんじと相近く、故にその法俗多く同じ云々、土気温暖、冬夏菜茹さいじょを生じ牛馬虎豹羊じゃくなし〉。いかにも日本古来虎豹なく、羊は後世入ったが、今に多く殖えず、かささぎは両肥両筑に多いと聞けど昔もそうだったか知らぬ。

     篤信が引いた『旧事記』は怪しい物となしくも、保食神の頂より牛馬しと神代巻一書に見え、天斑馬あまのぶちこまの事と、日子遅神ひこじのかみ、片手を馬鞍に掛けて出雲より倭国に上った事とを『古事記』に載すれば(『古今要覧稿』五〇九)、〈牛馬なし〉と書いた『後漢書』は、まるでうけられぬようだが、この他に史実に合った事ども多く載せ居る故、一概に疑う事もならず、地理の詳細ちょっと分りにくいが、朱崖※(「にんべん+擔のつくり」、第3水準1-14-44)耳という小地に近く、土気温暖、冬夏菜茹を生ずる日本の一部分、もしくは倭人の領地に、牛馬がなかったと断ずべしだ。

    日本上古の遺物に、牛馬飼養の証左ある由は、八木、中沢二君の『日本考古学』等に出づ。同じ『後漢書』東夷列伝に、辰韓しんかんは秦人(支那人)が馬韓ばかんより地をき受けて立てた国で、〈牛馬に乗駕す〉と特書せるを見ると、当時韓地にも牛馬を用いぬ所があったので、千年ほど前出来た『寰宇記かんうき』に、琉球に羊と驢と馬なく、〈騎乗を知らず〉といえるもその頃そうであったのだ。

     かつて出羽の飛島とびしまへ仙台の人渡れるに、八十余の婆語りしに、世には馬という獣ありと聞けり、生前一度馬を見て死にたしと(『艮斎間話ごんさいかんわ』上)。二十余年前まで但馬たじま因幡いなば地方で馬極めて稀なり、五歳ばかりの児に馬を知るやと問うと、顔を長く四疋よつあしと尾あり人を乗せると答う。大きさを尋ぬると両手を二、三寸に拡げ示し、その大なるものは下に車ありと答う。絵と玩具のほか、見た事ないからだと(『理学界』一月号、脇山氏説)。

    紀州でも、日高郡奥などに馬なき地多かった。また大和に、去年まで馬見た事ない村あったと、それ八月八日の『大毎』紙で読んだ。昨今すらこの通り、いわんや上世飼養の法も知らず、何たる要用もなく、殊には斎忌タブーの制煩多で、種々の動植を嫌う風盛んだった時に、牛馬のない地方が、わが邦に少なくなかったとかんがえる。想うにわが邦神代の馬は、「種類」の条で述べた、北方の馬種を大陸より伝えたのを、後世良馬を支那より輸入した事、貝原氏の説通りだろう。

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    「馬に関する民俗と伝説」は『十二支考〈上〉』 (岩波文庫)に所収




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